セルガルの槌音(『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』試し読み)

セルガルの槌音(『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』試し読み)

『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』に収録されているエピソードの中から、「瑠璃の湖のほとりで」の他にもう一編、こちらで試し読みしていただけるようにしました。遠い昔にネパールからラダックに来た仏師の末裔、鍛治職人セルガルたちの暮らす村、チリンでのエピソードです。よかったらご一読ください。

セルガルの槌音

 朝の澄んだ大気に、キン、キン、キンキンキンキン、と、甲高い音がかすかに響いている。麦畑を囲む石垣と石垣の間の細い道を辿って、音のする方へと歩いていく。頭上の梢には、重みで枝がしなるほど、杏がたわわに実っていて、甘酸っぱい匂いを放っている。
 甲高い音は、村で一番大きな屋敷の中庭から聞こえていた。木戸をくぐり、中庭の奥にある、あずまやに行く。紺と赤のセーターを着た坊主頭の壮年の男性が一人、あぐらをかいて、金床に向かって小ぶりな金槌を振るっている。手元の床に置かれた、大小の鏨(たがね)と火箸。白い壁には、小さな天秤が飾られている。
「ジュレー、アジャンレ・ツェリン(ツェリンおじさん)」
「おう、お前か。まあ、そこに座れ」
「お邪魔します」そう言いながら僕は、彼と向き合う形で、少し離れた場所に腰を下ろした。「今日は、何を作ってるんですか? バングル? スプーン?」
「今日は、これの続きをやる」彼はそう言って、脇に置いてあった作りかけの水差しを指さした。「せっかくだから、お前にいろいろ見せてやろうと思ってな」
 レーから南西に約六十五キロ、ザンスカール川のほとりにある村、チリン。人口わずか七十人ほどのこの小さな村には、かつてネパールから移り住んだ仏師を祖先に持つ、セルガルと呼ばれる鍛治職人たちが暮らしている。僕は、この村で数日間ホームステイをさせてもらいながら、数少ない現役のセルガルの一人、ツェリン・ジグメットの工房に通って、その仕事ぶりを取材させてもらっていた。
 彼が今日取り組んでいるのは、水差しのふたのすぐ下、首のように細くなっている部分の細工だ。彼はまず、羊の毛皮で作られたふいごで、僕との間にある小さな炉に炭火を熾し、炉に載せた空き缶で、融点の低い錫を溶かしはじめた。溶かした錫を、平たい石の作業台に載せた、水差しの首となる輪っか状の部品の内側に流し込む。錫が冷えて固まったら、輪っかの外側に、鏨と金槌を使って紋様を刻んでいく。内側に錫を充填してあるので、鏨を打ちつけても輪っかがへしゃげることはない。
 彼は、あぐらをかいた膝にかけた毛布越しに足で輪っかを押さえ、花と唐草のように見える複雑な紋様を、ほぼ一発勝負で刻んでいく。どれだけの修練を積めば、こんな風に軽やかに金槌と鏨を操れるのだろう。ほれぼれするほどの手際のよさだ。
「マー・デモ、マー・タクポ(すごくきれい、すごく上手)」
 カメラを構えながら僕がそう呟くと、彼は少し照れながら、輪っかにぐるりと刻み終えた紋様の出来を確かめ、それを火箸で挟んで、炉にかざした。内側に充填した錫を再び溶かし、輪っかの状態に戻すのだ。
「……もうすぐ完成?」
「いや、まだまだ。注ぎ口と、把手と、あと、ふたも作らないと。家の部屋に、前に作ったのがいくつかあるから、あとで見せてやろう」
 炉で溶かした錫を空き缶に戻し終えた彼は、ふうっ、と息をついて、作業場でごろんと横になった。
「くたびれたよ。休憩、休憩」
「アジャンレ、おなかとおへそ、出てますよ」
「おっと。いかんいかん」

「……あんた、メメレ(おじいさん)には会ったのかい?」
 昼飯を食べにホームステイ先の家に戻った時、家のおかみさんは、ターメリックライスをよそった皿を僕に差し出しながら言った。
「メメレ?」
「白くて、長ーいひげの」
「いや、まだ会ったことないです。どこの家の人?」
「ごはんの後に、連れて行ってあげるよ。セルガルの写真を撮りに来たんだったら、メメレには会っとかなきゃ」
 おかみさんが案内してくれたのは、村の中心から少し北東に離れた場所にある、こぢんまりとした平家建ての家だった。
「メメレー! いるかーい?」おかみさんが呼ぶ。
「……ああ、ああ。おるよ」
 そのしわがれた声は、家から突き出すような形でしつらえられた小部屋から聞こえてきた。村人たちからメメレと呼ばれている老人は、午睡から目を覚ましたばかりのところだった。臙脂色のゴンチェをまとった身体は小柄でやせていて、あごには白くて長いひげを蓄えている。
「この人がね、メメレに会いたい、写真を撮らせてほしいって」
「そうかい。まあ、構わんよ。ここでいいのかい?」
 そう言ってメメレは、小部屋の中で座り直し、背筋を伸ばした。ここは、彼の寝室であると同時に、セルガルとしての作業場でもあった。ほんの二メートル四方ほどの室内には、金床、大小の金槌や鏨などのこまごました道具が、手の届く範囲に整然と並べられている。棚には、作りかけの銅製の水差しや笛。ここにも、小さな天秤が飾られている。
 リンチェン・ソナム、八十五歳。チリンで最年長のセルガルだという。彼はこれまでに、ラダック各地の僧院で使われる祭具や楽器、飾り物など、数え切れないほどの美しい作品を手がけてきたそうだ。年老いて目も弱くなった今は、長時間の作業はほとんどしなくなり、気が向いた時に、休み休み手を動かしている程度だという。それでも、作業場の定位置に座ってカメラを見つめ返す彼のまなざしには、気の遠くなるほど長い歳月、この小部屋でひたすら金槌を振るい続けてきた、セルガルとしての矜持がにじみ出ているように思えた。
 この村で、セルガルの技を使える者は、メメレを含めても八人しかいない。最近では、ツェリン・ジグメットの息子が父親の跡を継ぐために修業に取り組んでいるが、彼ら以外のセルガルの家に跡継ぎが現れるかどうかは、わからない。セルガルの槌音は、これからもこの村で鳴り響き続けるのか。それとも、途絶えてしまうのか。

 セルガルのツェリン・ジグメットの家で、二人の小さな女の子と出会った。
 広々とした居間兼台所で、僕がバター茶をいただいていた時、女の子二人は居間の隅でノートと教科書を広げ、学校の宿題をやっていた。でも、勉強にはまったく集中できていないようで、ずっと、ちらちらと、僕と、窓辺に置いた僕のカメラばかり見ていた。
「……カネ・イン(どこから来たの)?」
 切れ長の目をした、鼻に引っかき傷のある、おてんばそうな女の子が訊く。
「日本だよ。君らは?」
「この村。あたしは、チョグラムサルの学校に行ってるんだけど」
「そっか、今は夏休みだね」
「何しに来たの、この村に?」
「アジャンレ・ツェリンの写真を撮らせてもらってるんだよ」
「へー。あたし、アジャンレの親戚なの」
「そうなんだ。君ら、名前は?」
「ツェワン。ツェワン・チョスドン」
「そっちの君は?」
「……スタンジン・スキッドム!」
 もう一人の、小柄でくりっとした目の女の子が、照れながら答える。
「ねえねえ」ツェワンが身を乗り出す。「そのカメラ、触らせてもらっていい?」
「いいよ。このストラップを首にかけて、こことここのボタンだけ使って。レンズは指で触らないようにね」
「わあー、重い! すごーい!」
 ツェワンとスタンジンは、小さな手でカメラを抱え、代わる代わるファインダーをのぞき込みながら、相手や僕や部屋の中を撮って、遊びはじめた。二人からカメラを取り戻すまで、二十分以上もかかった。
 それからというもの、僕が村の中を出歩くたび、二人はどこからともなく現れて、一緒について歩くようになった。
 たとえば、ある日の午後。収穫を終えた麦畑で、一匹の子羊がぶらぶらしているのを見つけると、
「あの子を捕まえるわよっ!」急に駆け出すツェワン。
「えー! あたしはどうすればいいの?」その場で飛び跳ねるスタンジン。
「あたしと一緒に来て! タカ! あんたはあっち側で待ち伏せてて!」
 僕たち三人は、ぜいぜい息を切らしながら、猛烈なスピードで垣根をくぐって逃げ回る子羊を、必死に追いかけ回した。二人がそうまでして子羊を捕まえたかったのは、何のことはない、「あのきれいに咲いてる菜の花畑の前で、あたしたちがこの子を抱っこしてるところを写真に撮って!」というだけだったのだが。
 たっぷり一時間近くも費やして、気の毒な子羊をどうにか捕まえ、菜の花畑の前で写真を撮ってあげていると、ホームステイ先のおかみさんが家の中から出てきて、あきれたように「あんたたち、ヒマそうだねえ」と声をかけてきた。
「そんなに時間あるなら、そこのたらいに入れてある杏の種取りをして、干してきてよ」
 見ると、軒先に置かれた直径六十センチはある金だらいに、橙色の杏の実が山盛りになっている。
「この量を、三人で、全部?」
「やれるだけでいいよ。ヒマなんでしょ? あんたも」
 僕は杏の入った金だらいを両手で抱え、ツェワンとスタンジンに案内されて、村の水路の近くで杏を干してある場所に行った。ここで、杏を指で割り、中から種を取り出し、木枠に張った網の上に果肉を並べて、天日干しにするのだ。干した杏は、長く厳しい冬を乗り切るのに欠かせない栄養源になる。種は種で、搾ってオイルを取ったり、殻を割って杏仁を取り出したりして利用する。
 木陰の下、三人で金だらいを囲んで座り、一日では絶対に終わらなさそうな量の種取りを始める。すぐに指先が果汁でベトベトしてくるので、時々、水路で手をすすぐ。ツェワンとスタンジンは案の定、ほんの十分ほどで、この作業に飽きてしまった。種を取った果肉を額やほっぺたにくっつけたり、互いに投げ合ったり、ふざけてばかり。
「思うんだけどさあ」果肉でべたべたになった顔のまま、ツェワンが言う。「タカと、あたしたちって、もう、おともだちよねー?」
「もっちろんよ!」スタンジンが笑う。「おともだちよ、ねーっ?」
 この、どうということのない午後のことを、僕は、ずっと忘れないと思う。

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