1月22日(土)、広尾で開催されたジュレーラダックのイベントに行ってきました。今回のイベントでは、昨年ジュレーラダックが実施したスタディツアーやファームステイプログラムに参加した方々からの報告が披露されたのですが、みなさんがそれぞれの視点でラダックの有り様を捉えていたのが、とても興味深かったです。
報告会のトリを務めたのは、去年の夏、ザンスカールの手前にあるハヌパタという辺鄙な村で四カ月間ステイしていた、京都在住の大学生の女の子。ラダックでは本名の代わりに「リグジン・アンモ」と呼ばれていて、今ではそれがすっかり定着してしまいました(笑)。
複雑で時に窒息しそうになる日本の社会と、ある意味で対極に位置するラダックのシンプルな社会。それを体験することで、これからの自分の道を考えてみたかったというのが、彼女がハヌパタに向かった理由でした。僕は去年の夏にレーでアンモレと会っているのですが、田舎暮らしで身体中を南京虫に刺されまくりながらも、持ち前のバイタリティと屈託のない笑顔で、彼女はすっかりラダックの人々に溶け込んでいたように思います。村人に「俺の嫁になってくれ」とも言われたらしいです(笑)。
ただ、そうしたシンプルな世界から帰還した後の揺り戻しで、アンモレは二つの世界の間に存在するギャップに、かなり思い悩んでいたようでした。彼女も、以前僕と同じ時期にラダックの村々で暮らしていたケタレもそうだったと思いますが、彼らのようにある程度長い時間、ラダックという場所に身を浸していると、日本の社会に対してそういう違和感を感じるようになるのも当然かな、と思います。僕自身、彼らくらいの年代だったとしたら、もっとあれこれ悩んで、ドツボにはまっていたかもしれません(苦笑)。
かけがえのない場所であるラダックを、日本の社会で生きていく中で、心の支えとして大切にしていく。それはとてもいいことだし、そこから見えてくる物事もたくさんあるはずです。でも、たとえば、日本で生きていくのが嫌になったからといって、安易にラダックのような場所を逃げ場所に選ぶのは、何か違うとも感じます。それぞれの世界に、それぞれの生き方がある。日本にも、世間的な評価とは別に、素晴らしい仕事、魅力的な生き方をしている人は大勢います。それに、ラダックで生きていくのだって、別の意味で大変なことがありますから。
仕事とは、誰かのために何かをしてあげて、「ありがとう」という気持とともにその対価を受け取るということ。そして仕事は、誰かに与えてもらうのを待つだけではなくて、その気になれば自分でも作れるものだということ。それは日本でもラダックでも、世界のどんな場所でも変わらないのではないでしょうか。
まあ、ケタレもアンモレもまだまだ全然若いので(笑)、あれこれ思い悩んで、行きつ戻りつしながら、自分なりの仕事、自分なりの生き方を選びとってくれたら‥‥と思います。彼らには、ラダックというもう一つの居場所がありますから。
コメントを残す