“そのころも旅をしていた。”
開高健の『夏の闇』は、たしかこんな一行から始まったように思います。
この小説は、ベトナム戦争の従軍記者として凄絶な体験をした主人公が、心の奥に抱えた闇から逃れるように、欧州であてどない彷徨を続けるという物語です。この冒頭の一行の後には、雨に濡れそぼったパリの街の情景が続くのですが、異国の街を一人で彷徨う男の孤独が見事なまでに描かれていて、物書きとしては妬ましくなるほどの名文です。
ラダックに来る前、僕は仕事の合間に時間と金の都合をつけては、あちこちの国を旅して回っていました。知らない街に辿り着き、重い荷物を背負ったまま、その日の寝床と食べ物を探して路地裏をとぼとぼ歩く。そんな時、僕の脳裏にはよく、この“そのころも旅をしていた。”という一行が浮かんできます。『夏の闇』の主人公のように心に闇を抱えてはいないけど、あの冒頭の文章に込められていた言いようのない孤独や不安は、異国を一人で旅する自分にはぴったり重なり合うと感じていました。そしてそれが、ぞくぞくするほど愉しかった。
でも、ラダックに来てからは、この一行が脳裏に浮かんできた回数は、そんなに多くありません。それまで繰り返してきた旅と、今回ラダックで過ごしている日々は、どこか根本的に違うのです。飽きたわけでも、慣れたわけでもない。
“しっくり馴染んできた”とでも言えばいいでしょうか。
ラダックで半年近い月日を過ごしてきて、身の回りの色々なものに、自分の感覚が馴染んできたような気がするのです。空の青さ、空気の薄さ、砂塵を舞い上げる風、雪を被った山々、岩山にそびえるゴンパ、日干しレンガの家々‥‥。そうしたものを当たり前のように身近に感じることが、この上なく心地いいのです。
しっくり馴染むことができたのは、ラダックの人々のおかげも大きいと思います。レーの街をぶらぶら歩いていても、日に3、4人は知り合いに出くわして、「何やってるの?」「いつ日本に帰るの?」「今度うちに遊びにおいでよ!」‥‥といった具合に声をかけられます。行きつけの店や食堂ではすっかり顔を覚えられているし、夜になって宿に戻れば、デチェンさんたちとワイワイ言いながらテレビを見ている毎日。時々知らない村に出かけていっても、会う人会う人みんな気さくで親切で、“孤独”とか“不安”とか、そういったものを感じている暇がない(笑)。
ラダックを“旅”するのではなく、ラダックで“日常”を感じてみたかった。そう思ったからこそ、僕は今回、できるだけ時間をかけてラダックに滞在することを選びました。その選択は間違っていなかったと感じています。通りすがりの“旅”の目線だけでは捉えることができないものが、ここにはある。孤独や不安でぞくぞくすることはないけれど、それ以上に大切なものを感じ取ることができると思うのです。
11月にはいったんこの暮らしをリセットして、日本に一時帰国します。ヴィザの再手配や冬の装備の購入のほか、公私共に色々とやらなければならないことがあるからですが、ここで一呼吸置くことで、またリフレッシュした感覚でラダックでの“日常”に戻れるような気がしています。冬のラダックがどんな表情を見せてくれるのか、本当に楽しみです。
お気持ち本当によくわかります。私なんぞ、まだ2度しか行った事の無いこの土地が今では、第二の故郷であり家族のいる村になったのですが、その事になんの違和感も感じていない自分がいるのも確かです。それは、彼らの受入れ態勢のお陰なんでしょうか、、、。日本でも、お会い出来るのを楽しみにまっています。
>kaoriさん
そうですよね、kaoriさんはラダックにご家族がいるんですもんね。受け入れてくれるこの土地の人たちの屈託のなさというか、度量の広さには感心してしまいます。
日本でも、ぜひ!