瑠璃の湖のほとりで(『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』試し読み)

現在発売中の『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』に収録されているエピソードの中から、一編をこちらに転載して、試し読みしていただけるようにしてみました。ラダックの東部、標高四千メートルを超える高地にある湖、パンゴン・ツォを訪ねた時のエピソードです。よかったらぜひご一読ください。

瑠璃の湖のほとりで

 人差し指、中指、薬指。左右合わせて六本の指で、ツェワン・リグジンは僕の手首を押さえ、軽く目を閉じ、指先に神経を集中させている。
「……悪くないよ、どこも」薄い虹彩の目を開け、手を離し、息をつく。
「そうですか、よかった。ジュレジュレ」
「ちょっと、火の元素が強いかな」
「……どういう意味ですか?」
「仕事に、カーッとなって集中するタイプだろう、君は。ちょっと、一生懸命すぎるんじゃないか?」
 冗談めかしてそう言いながら、彼はフフッと笑った。
 ツェワン・リグジンは、チベット伝統医学の医師、アムチだ。六十代半ばの彼は、ラダック東部にある巨大な湖、パンゴン・ツォ湖畔のメラクで暮らす、村でただ一人のアムチだった。
 チベット伝統医学では、人間の身体は、地、水、火、風、空の「五元素」を基に現れる、ルン、ティーパ、ベーケンの「三体液」によって成り立っていると考えられている。これらの要素の調和が乱れると、病気の原因になるのだという。アムチは、患者の左右の手首から脈動を探ることで、三体液の調和が取れているか、乱れている場合は何が原因なのかを診断する。彼らの脈診を神がかった技術のように受け止める人もいるが、アムチはそれ以外にも、患者への問診、目の色や舌の色、場合によっては尿の状態なども確認して、総合的に診断を下す。そして、数百種類に及ぶという植物などの材料から、患者の症状に合わせて薬を調合し、治療を行う。かつては、ラダックではどこの村にも二、三人はアムチがいたそうだが、今はすっかり少なくなってしまった。
 ラダックの中でも標高四千メートルを超える東の辺境に位置し、わずかな畑と四十軒ほどの家しかないこの村で、アムチとして村人たちから頼りにされている彼は、村一番の名士とも呼べる存在だ。ただ、当の本人には、偉ぶっているようなところはまったくない。温厚で物静かで、家の居間兼台所にいる時はいつも、僕のような泊まり客に茶や菓子を出してもてなしたり、彼に輪をかけて無口な妻と一緒に、せっせと食事の支度をしたりしている。
 窓の外が暗くなってきた頃、すりきれた上着を着た村の若い男が一人、「ジュレー」と挨拶しながら、僕たちのいる居間に入ってきた。以前、ツェワンに往診してもらった自分の妻の薬を、代わりに受け取りに来たのだという。彼女のその後の具合について、男がぼそぼそと話すのを、うんうんとうなずきながら聞いていたツェワンは、部屋の隅に置いてあった古い鞄を引き寄せた。中には、ぱっと見は何に使うのかわからない診療道具や、薬の包みがいくつか入っている。彼は、三種類ほどの薬の粉末を慣れた手つきで計りながら調合すると、手近にあったノートから一ページをバリッと破いて、その紙で薬の粉末をこぼれないように包んだ。包みの外側に、服用の仕方をペンでさらさらっとメモする。
「そんな風にして渡してるんですね、マンヌ(薬)を」
 彼の手元をのぞき込みながら僕がそう言うと、ツェワンは目を細めて、また、フフッと笑った。
 妻の薬を受け取りに来た男は、懐から二、三枚の紙幣を取り出し、ツェワンの手に押し付けるようにして渡そうとした。
「どうかどうか」「いやいや」「まあそう言わずに」「いやいやいや」
 ツェワンは困ったように笑いながらも、頑として受け取ろうとしない。かつてのラダックでは、アムチに診てもらった人は、お礼にアムチの家の畑仕事を手伝ったり、自分の畑で穫れた作物を進呈したりしていたそうだ。ツェワンの場合、診療代を受け取るかどうかは、その時々の判断で、金額も特には決めていないのだという。そういうところも、彼が村人たちから慕われている理由なのかもしれない。

「……今日は、湖の見晴らしのいいところに連れて行ってやろう」
「村の裏手の山ですか? 前に一人で登ったことが……」
「いや、村から少し南にあるところだ。そこに行ったことのあるチゲルパ(外国人)は、まだ誰もいない。とっておきの場所だよ」
「仕事は、大丈夫なんですか?」
「昼から、村のゴンパで用事があるが、それまでは大丈夫さ」
 ツェワン・リグジンの家から外に出ると、ごついタイヤを履いている一台のピックアップトラックに乗るように促される。途中でかなり急な斜面を登るので、この車でないとダメらしい。
 村の下手にある道を辿って、南へと向かう。いい天気だ。空には、ぽつぽつと雲が浮かんでいる程度で、太陽の光が、フロントガラスから車内いっぱいに射し込んでくる。道の左側には、たとえようもなく碧い色をしたパンゴン・ツォの湖水と、白い雪を戴いた山々が見える。
 メラクを出て、カクステットという集落を過ぎ、さらに南に向かう。少し前まで、外国人は、パンゴン・ツォ周辺への入域許可証を持っていても、メラクから南に行くことは許されていなかった。そこまで行くと、インドと中国との間の暫定国境線に接近し過ぎてしまうからだった。規制がゆるめられたのは、ごく最近のことだ。メラク自体、外国人の立ち入りが許されるようになってから、十年ほどしか経っていない。
 やがて、左前方に、湖に少し突き出すような形でそびえている、高さ百メートル前後のこんもりした形の丘が見えてきた。車は麓から加速をつけ、二つ、三つと急斜面を乗り越えて、ぐいぐいと丘を登っていく。少し平らになっている頂上に着き、ドアを開けて、外に出る。そこで目にした光景に、僕はしばらくの間、言葉を失ってしまった。
 こんなに美しいものが、この世界にはあるのか。
 丘の上から見渡したパンゴン・ツォは、岸辺で見るよりもさらに色合いに深みを増し、空がそのまま砕けて溶けてしまったかのような、瑠璃の湖水を湛えていた。南から射す太陽の光が、さざなみにきらきらと反射する。サファイア、ラピスラズリ、アクアマリン、ターコイズ……どんなに高価な宝石でも、この湖水の色と輝きには、比べようがない。
 パンゴン・ツォは、幅は五キロくらいだが、長さは百三十キロにも及ぶ、とても細長い湖で、インドと中国の暫定国境線をまたぐような形で、東西に横たわっている。東側の六、七割ほどが中国、西側の三、四割ほどがインドの実効支配地域に含まれている。湖の北西端から南東に伸びてきた湖は、僕たちが今立っているこの丘のあたりで少し折れ曲がり、暫定国境線を越えて、真東に伸びていく。この丘から、湖の上を横切っているはずの暫定国境線までは、ほんの数キロしか離れていない。その先は、中国、というより、かつてはチベットであった土地へと続く。
「マー・デモ(本当に美しいですね)」
 僕がそう呟くと、ゴンチェの裾を風に翻しながら佇んでいたツェワンは、サングラスの下で、フフッと笑った。
「お茶にするか」
 彼は、車に積んであった魔法瓶とコップを取り出すと、ゴンチェの懐に入れていたビスケットの小さな包みを開いて、それらを地面に転がっていた平たい石の上に並べた。
「準備いいですねえ」
「まあ、ピクニックだからな。知ってるか? そこに生えてる草も、薬になるんだぞ」
「へえー。どう使うんですか?」
「もう少し経ったら実がなるから、それをゆでてすりつぶして、塗り薬にするのさ。強壮剤にも使える」
 紅茶をすすりながら、ビスケットを一つつまんで、かじる。首筋にひりひりと照りつける陽射しの熱を冷ましてくれるかのように、ひんやりとした風が、湖を渡って、僕たちの周囲を吹き抜けていく。
「あそこに、谷が見えるだろう。あの、山と山の間に」
 ツェワンはそう言いながら、対岸の山の麓を指さした。確かに、大きくU字型にえぐれたような谷が見える。かつては氷河の底だったような地形だ。
「あの谷で、昔、砂金を見つけたことがある。今はもうないだろうがな」
「あんなところまで、行ったことがあるんですか?」
「もっと若い時にな」
「だって、暫定国境線の目の前ですよ? ボートか何かで?」
「いや、歩いていった。冬になれば、湖は全部凍ってしまうからな。湖の氷の上を歩いて、向こう岸まで行き来できるようになるんだよ」
 そんな話を聞きながら、さざなみにきらきらと反射する光を眺めていると、どこからどこまでがどっちの国なのかとか、そんな話が、本当にちっぽけな、どうでもいいことのように思えてくる。人間同士が、地面の上や湖の上に勝手に線を引き合って、せせこましいなわばり争いをどれだけ繰り広げたところで、この地を統べる自然の理には、何の意味も影響もない。
 人間がこの地に現れるよりもはるか前、太古の昔から、パンゴン・ツォはずっと同じように、瑠璃の輝きを放っていたのに違いない。この美しい湖のほとりに生まれ育ち、穏やかな生涯を過ごしていくツェワン・リグジンのような人たちは、きっと、そのことをよく理解している。

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