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オクラ丼と路地裏の食堂(『旅は旨くて、時々苦い』試し読み)

現在発売中の新刊『旅は旨くて、時々苦い』に収録した短篇の中から、一篇をこちらに転載して、試し読みしていただけるようにしました。少し前にバックパッカーとしてインドを旅した日本人なら、かなりの人が知っているはずの、あの店のあの料理について。よかったらご一読ください。

オクラ丼と路地裏の食堂 India

 ニューデリー駅の西に、いつもわちゃわちゃと混雑している、一本の通りが伸びている。絶え間なく行き交う人々、車、荷車、オートリクシャー(三輪タクシー)、サイクルリクシャー(三輪自転車タクシー)。あちこちで突拍子もなく鳴り響くクラクション。野菜市場に突き当たるあたりで通りは二股に分かれ、それぞれさらに細まって、よそ見していると轢かれてしまいそうなほど、ひどく混み合うようになる。通りに面した建物の隙間には薄暗い路地があり、迷路のように入り組みながら、奥へ奥へと続いている。
 色褪せた建物の壁にずらりと架かった、ホテルやゲストハウス、バーのネオン看板。食堂、旅行会社、土産物屋、服屋、雑貨屋、タバコ屋、薬局、食料品店。スパイス風味のチャイを売る店。歯が溶けそうなほど甘い揚げ菓子、ジャレービーを売る店。ふかしてつぶしたじゃが芋を包んで揚げたスナック、サモサを売る屋台。ありとあらゆる店がある。
 インドの首都デリーで、定番中の定番とされている安宿街、パハールガンジ。世界各国から集まってきたバックパッカーの多くは、この猥雑な一角で宿を取ってから、インド各地へと旅立っていく。中には、日々特に何をするでもなく、ずっと「沈没」し続ける旅行者もいる。喧騒、興奮、焦燥、混沌、怠惰。むせかえるほど濃密な旅の瘴気が、この安宿街にたち込めている。
 駅から野菜市場のあたりまでの道路は、以前はもっと狭かったが、何かの折の区画整理で、強引に拡張された。通りに面していた建物は、拡張する部分に出っ張っていた部分だけ、ざっくり切り飛ばされてしまった。通り沿いには、不自然に切り取られたような形の建物が、そこかしこに残っている。ある意味、とてもインドらしい光景だ。

 いつからだろう。パハールガンジに宿を取る日本人旅行者の間で、オクラ丼が話題になりはじめたのは。
 その店は、細い路地を入っていった先の、ひときわ奥まった場所にあった。食堂と呼べるほどちゃんとした店構えではなく、ある安宿の入口の手前で、路地の左側に客席、右側に厨房という形で営業していた、半分露店のような佇まいの店だった。看板も何もなく、店名もわからない。そもそも名前のない食堂だったのかもしれない。
 蛍光灯が一つ灯っているだけの薄暗い厨房には、ガスコンロが二つ、冷蔵庫が一つ。普段は痩せぎすの若い男が一人で、たまに忙しい時は手伝いの少年と二人で、切り盛りしていたように思う。
 路地の左側の客席には、てらてらのビニールのクロスをかけたテーブルと、プラスチックの椅子が数脚。地面が傾いていたので、テーブルも傾き、がたついていた。瓶入りのコーラを注文した時には、うっかり瓶を倒さないように用心しなければならなかった。
 褪せたピンク色の壁には、紙にマジックペンで書かれた日本語と英語のメニューが貼られていた。親子丼。中華丼。かき揚げ丼。チキンカツ丼。オムライス。お好み焼。野菜炒め。胃腸の調子の悪い人向けか、野菜や卵のおじやもメニューに入っていた。
 それらの中でも、日本人旅行者の間で圧倒的に有名だったのが、オクラ丼だった。以前はもっと安かったが、最終的には百ルピー(日本円で百六十円くらい)まで値上がりしていたと思う。
 料理としては、本当にシンプルなものだった。細かく刻んだオクラを醤油と何かで味付けして、ネバネバになるまでかき混ぜ、丼に盛った米飯の上にどっさりかけて、さらにその上に目玉焼を載せる。それだけだ。
 目玉焼の黄身をスプーンで適当に崩して混ぜながら、オクラと米飯を頬張ると、不思議なくらい、旨かった。何だろう。日本料理でもなく、インド料理でもない、でもどこかほっとする味。この猥雑なパハールガンジで、そういう料理を思いがけず口にできるという意外さも、味わいを後押ししていたのかもしれない。
 僕自身、デリーに立ち寄って一、二泊する時は、この名もない路地裏の食堂に行って、オクラ丼と瓶入りのコーラを注文するのが、習慣になってしまっていた。パハールガンジで食事の選択肢はほかにいくらでもあったけれど、何となく、足を運ばずにはいられなかったのだ。
 旅好きの知り合いの間でも、この路地裏の食堂は有名で、オクラ丼を注文したという人も多かった。中には、目玉焼の火の通し具合がよくなかったのか、食べ終えた後に腹を激しく壊して、日本に帰国する飛行機でも苦しみ抜いたという人もいたが……。
 パハールガンジでも、とりわけ大勢の日本人旅行者が集まってくる食堂だったので、時には思いがけない出会いもあった。ある時は、以前モロッコで知り合って、何日も同じ行程で行動をともにした夫妻と、およそ六年ぶりに再会した。モロッコで初めて会った時、その夫妻は、新婚旅行で世界一周の旅に挑戦していたはずだった。
「世界一周はどうでした? あれから、どんな風に過ごしてたんですか?」
 僕がそう訊くと、二人はどうということもない風に、「……まだ、旅の途中なんですよ」と笑った。そんな、途方もない旅の強者たちも、あの路地裏の食堂に集まってきていたのだった。

 今はもう、あの路地裏の食堂は、存在しない。
 何年か前にデリーを訪れた時、いつもの調子で店に行ってみると、厨房と客席のあった場所には、大小のがらくたが山と積み上げられ、物置のようになってしまっていた。理由はわからない。その後、パハールガンジのほかの場所で営業している旅行者向けのレストランで、日本人目当てにオクラ丼を出しているところも見つけたが、あの食堂で出されていたものとは、別物の味だった。
 旅の日々の記憶に、ぽっかりと、穴が空いてしまったような気がした。
 そこに行けば、あるのが当たり前だと思い込んでいた、馴染みの店、馴染みの味。失ってから初めて気づく存在は、たぶん、一人ひとりの心の中に、それぞれ何かしらあるのだと思う。

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