持てる者、持たざる者

今年の夏のラダック取材では、遠隔地へ行くための車を運転してくれた現地の知人の方と、ドライブ中にたくさんいろんな話をする時間がありました。日本で今、ラダックはどんな風に知られているのかという話題になった時、僕はこんな風に説明しました。

「日本では、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジの『懐かしい未来』や『幸せの経済学』という映画を観て、ラダックに興味を持つようになった人が増えています。ただ、そういう人の中には、ラダックの古き良きライフスタイルが開発と大量消費文化の流入によってすっかりダメになってしまった、と思っている人もたくさんいます。実際には、ラダックに来たことがない人も多いんですけど(苦笑)。そんな感じで、ラダックの人々は昔ながらの伝統的な暮らし方に戻るべきだ、と考えている人が多いんですよ」

すると、その知人は僕にこう言いました。

「それは、経済的に豊かで、ありあまるほどたくさんのものを持っている国の人だから言えることですね。ラダックの人たちは、何も持っていなかった。今までたくさんのものに恵まれてきた人が、急に、何も持っていない人に『持っちゃだめだ』と言っても、聞いてもらえないですよ」

確かにその通りだな、と思います。ラダックの人々に「大量消費社会に染まるな」と僕たち外国の人間が簡単に言い放っても、説得力に欠けるし、傲慢とさえ受け取られかねません。

知人はこうも言いました。

「ラダックの昔ながらのライフスタイルに憧れている人がいるというけれど、そういう人たちの大半は、ここで暮らし続けていくことには耐えられないと思います。長くて辛い冬の間は、水道も使えず、電気もろくに来ないし、食べ物はどんどんなくなっていく。そういう不便さや辛さを知らずに、ただラダックのライフスタイルに憧れるというのも‥‥。たとえば、あなたの奥さんが身重で、出産直前で危険な状態になったとします。その時でもあなたは、救急車を呼ぶ代わりに、奥さんを馬に乗せて医者のところに連れていくんですか?」

最近、ラダックを引き合いに出してローカリゼーションや持続的開発といったことを啓蒙しようとしている人たちの中には、ラダックという土地とそこで暮らす人々がどうなろうと正直どうでもよくて、ただ自分たちの主義主張を周囲に広めることに汲々としている人が少なからずいる、と僕は感じています。僕はラダックに全面的に肩入れしている人間(笑)ですから、そういうラダックをダシにするようなやり方は好きではありません。

もちろん、急速な変化の波がラダックに押し寄せていることは、注意深く見守っていかなければなりません。でも、ラダックをこれからどうするのかはラダックの人たち自身が決めるべきことで、外部の人間である僕たちが無理強いしてはいけないと思います。ただ、ラダックの人々が遠い昔から脈々と続けてきた伝統的な暮らしには素晴らしいものがあるのは確かだし、そこから学べる知恵もたくさんあります。伝統と開発の良い部分を、バランスよく共存させることはできるはず。そのためのサポートは、僕たちにもできるのではないでしょうか。

ラダックの人々が、誇りを持って自らの行先を選べるように、手助けをしていきたい。そのために自分に何ができるのか、これからも探り続けていこうと思います。

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