写真は、スピティからの帰りに立ち寄ったヴァシシトの町にて。
今年の夏、6月末から約3週間ほどラダックに滞在していたのですが、その中であらためて感じたことがあります。それは、「居心地があまりにもよくなりすぎた」ということ。
もともとラダックという土地自体が、旅人にとって他に例を見ないほど居心地のいい場所というのもありますが、かれこれ足かけ5、6年ほど取材を続けてきて、現地の事情にもすっかり慣れ、言葉も覚え、あちこちに知り合いもたくさんできて‥‥何をするにも、ラクになりすぎてしまった気がしたのです。写真や文章を生業にしている僕にとって、そういうラクすぎる環境は必ずしもプラスには働かないかもしれない。ラクすぎることに、ともすると甘えてしまうかもしれない。そう感じる場面が、滞在中にも何度かありました。
それに、これまでラダックで積み重ねてきた取材の成果をふりかえってみると、行ったことのない場所、やったことのないものというのは確かに残ってはいるのですが、これから作る自分の本にとって、本質的な部分で絶対にラダックでやっておかなければならないことは、実のところ、あまり残っていないのかな、と。少なくとも、「ラダックの風息」を書いた時のような膨大なチャレンジは、もうラダックには残っていないと感じています。
では、これからどうするのか。
一人の物書きとして、そして写真家として、僕はラダックとはこれからもずっと関わり続けていくでしょう。ガイドブックまで書いておいて「もういいや」とか言ったら、ブーイング浴びまくりでしょうし(笑)。ただ、ラダックに片足を突っ込み続ける一方で、それとは別に、新しい場所、新しいテーマへのチャレンジも、これからしっかりと考えていくべきなのかな、と感じています。ありったけの熱意を込めて、全力で挑めるような、まったく新しいチャレンジを。
それがどんな場所なのか、どんなチャレンジになるのか、正直まだとてもぼんやりしていて、何もつかめていないのですが‥‥ラダックの居心地のよさにただ甘え続けるのではなく、新しい可能性を見出す努力を続けていきたい、と思っています。
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