Days in Ladakh

ラダックの歴史

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ラダック(Ladakh)には「峠を越えて」という意味がありますが、この呼称が使われるようになったのは17世紀頃から。それまでは、「低地の国」という意味のマルユル(Maryul)という名で呼ばれていました。

8世紀頃、チベットの吐蕃王国がラダックを占領してから、チベット系の民族がラダックに流入して住み着くようになったと言われています。9世紀半ば、廃仏政策を実施したことで知られるランダルマ王が暗殺されると、吐蕃王国は崩壊の道を辿り、群雄割拠の時代が訪れます。10世紀頃には、ラチェン・パルギゴンがラダックを統一した最初の王となって、シェイを王都に定め、ラチェン王朝を興しました。

その頃、隣国のグゲ王国をはじめとする西チベット一帯では、仏教を復興させるための運動が盛んになりました。特に、ロツァワ(翻訳官)と呼ばれる高僧リンチェン・サンポは、膨大な量の経典の翻訳を手がけたほか、留学先のカシミールから32人の建築家、仏師、絵師を連れ帰り、グゲのトリン、ラダックのニャルマ、スピティのタボなど、各地に多数のゴンパを建立しました。アルチ・チョスコル・ゴンパなどに見られる独特の様式は、この頃にもたらされたカシミール様式の仏教美術の影響を受けています。

16世紀頃、タシ・ナムギャル王がナムギャル王朝を興し、シェイからレーに遷都。17世紀のジャムヤン・ナムギャル王の時代には西の隣国バルティスタンとの戦争に破れましたが、まもなく勢力を取り戻し、その息子であるセンゲ・ナムギャル王の治世にラダック王国は全盛期を迎えます。センゲ・ナムギャル王はチベットから来た高僧タクツァン・レーパを王家の導師とし、レー王宮やヘミス・ゴンパなどを次々と建立。対外的にもザンスカール王国やグゲ王国を併合するなど、領土を拡大していきました。

17世紀後半、ラダック王国とダライ・ラマ5世治下のチベットとの間で戦争が勃発。一時はレーも占拠されるなど、戦いはチベット側が優勢でしたが、ラダック王国はムガル帝国からの援軍を得て、辛うじてチベットとの講和を締結。その代償として、ラダック王国は多くの領土を失い、衰退していきました。

19世紀に入ると、ジャンムーのドグラ族(ヒンドゥー教徒)の軍勢がラダックに侵攻。ラダック王国はジャンムーの属国となり、その後、チベットからの支援を受けつつ再起を図ったものの敗退。1842年にラダック王国は滅亡し、英国の介入によって成立したジャンムー・カシミール藩王国に併合されました。

第二次世界大戦後にインドが独立してから、ジャンムー・カシミール藩王国はインドへの帰属を表明しましたが、西部のバルティスタンの大半はパキスタンが、東部のアクサイチンは中国が占領。以来この地域は、国境が未確定のまま現在に至っています。チベットでは文化大革命の時に僧院の大半が破壊されてしまいましたが、インドに属していたラダックとザンスカールでは、古くからの建造物や仏教美術、伝統文化がそのまま残される形となりました。

イスラム教徒の勢力が支配的なジャンムー・カシミール州の中にあって、1995年には、ラダック人による限定的な自治組織であるLAHDC(Ladakh Autonomous Hill Development Council、ラダック自治山間開発会議)が誕生し、限定的ながら予算を配分されるようになりました。とはいえ、ラダックの連邦直轄領化を望むラダック人の声は今も根強く残っています。