父について

2011年7月27日未明、父が逝った。71歳だった。

当時、父は母と一緒に、イタリア北部の山岳地帯、ドロミーティを巡るツアーに参加していた。山間部にある瀟洒なホテルの浴室で、父は突然、脳内出血を起こして倒れた。ヘリコプターでボルツァーノ市内の病院に緊急搬送されたが、すでに手の施しようもない状態で、30分後に息を引き取ったという。

父の死を報せる妹からのメールを、僕は取材の仕事で滞在中だったラダックのレーで受け取った。現地に残っている母に付き添うため、翌朝、僕はレーからデリー、そしてミラノに飛び、そこから四時間ほど高速道路を車で移動して、母がいるボルツァーノ市内のホテルに向かった。

車の中で僕は、子供の頃のある日の夜のことを思い出していた。その夜、僕たち家族は車で出かけて、少し遠くにある中華料理店に晩ごはんを食べに行ったのだ。店のことは何も憶えていないが、帰りの車で助手席に坐った時、運転席でシフトレバーを握る父の左手にぷっくり浮かんだ静脈を指でつついて遊んだことは、不思議によく憶えている。指先に父の手のぬくもりを感じながら、「もし、この温かい手を持つ人が自分の側からいなくなったら、どうすればいいんだろう?」と、不安にかられたことも。

翌朝、病院の遺体安置所で対面した父は、まるで日当りのいい場所で居眠りをしているような、綺麗で穏やかな顔をしていた。腹の上で組まれた父の手に、僕は触れた。温かかったはずのその手は、氷のように冷たく、固かった。

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その日の午後、現地の旅行会社の方のご好意に甘えて、僕と母は、父が以前から行きたがっていたドロミーティのシウジ高原に案内してもらった。空は朝のうち曇っていたが、その後、父のトランクを引き取るために彼が最後に滞在していたホテルを訪れた時にはすっかり晴れて、澄み切った青空が広がるようになった。濃緑の針葉樹林から巨大な岩山がそびえるドロミーティ独特の風景は、ラダックの山々を見慣れた僕の目にも、ほれぼれするほど美しかった。

「父さんはきっと、幸せな死に方をしたんだと思うよ。長い間憧れていたドロミーティに来て、こんなきれいな風景を見ながら、ほとんど苦しまずに逝くことができたんだから」

僕はそう言って、自分を責めては泣いてばかりいる母を慰めようとした。たしかに、父は幸せな死に方をしたのかもしれない。でも、このタイミングで父がそういう死に方を望んだとは、とても思えなかった。あの生真面目な男が、まだ六十代半ばの妻や、育ち盛りの孫たちや、菜園で収穫を待っている夏野菜を残したまま逝くことを、自ら選ぶはずがなかったから。

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父は、真面目すぎるくらい真面目で几帳面な男だった。酒はほんの少したしなむ程度で、煙草もギャンブルもゴルフもやらなかった。東大を卒業するほど頭のいい人間で、その気になればどんな仕事でも選べたはずだったが、当時体調を崩していた両親を支えるために、故郷の岡山で高校教師になる人生を選び、定年になるまでその仕事を全うした。退職してからは、長野県の安曇野に建てた小さな別宅で静かに過ごしたり、世界各地を旅行して回ったり、怪獣のように元気な二人の孫たちの世話を焼いていたりした。

申し分のない老後を過ごしていた父にとって、ほぼ唯一の悩みの種は、息子の僕のことだったのではないかと思う。僕は、父とはまるで正反対の行き当たりばったりな生き方を選んだ。大学を自主休学して旅に出てしまったり、卒業後もろくに定職に就かず、出版社で少し働いて金を貯めては、また旅に出てしまったりしていた。今も、物書きとして一人前になれているとは、とても言えない。

「父にとって、僕はダメな息子だったと思います」

岡山の実家で親戚の人たちと会っていた時、僕がそう呟くと、叔父の一人が僕に言った。

「お父さんは、君がそういう生き方をしているのを、とても喜んでいたんだ。うらやましい、とさえ思っていたんだ」

本当にそうだったのだろうか。僕は父に訊いてみたかった。僕が選んだ生き方は、間違っていなかったのか、と。

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岡山で父の葬儀を終えてから三週間後、僕は中断していた取材を続けるため、ラダックに向かった。たくさんの人々の協力を得て、ラダック西部とザンスカールでの取材を首尾よく終えた後、僕はラダックまで、トレッキングで歩いて戻ることにした。

ザンラという村を出発して三日目、僕は標高4700メートルのハヌマ・ラという峠に辿り着いた。峠の上からは、果てしなく連なるザンスカールの険しい山々と、その懐に抱かれて眠る赤子のようなリンシェの村が見渡せた。しばらく腰を下ろして呼吸を整えた後、僕はカメラバッグから一個のフィルムケースを取り出した。中には、日本から持ってきた父の遺灰が、ほんの少しだけ入っていた。

遺灰を手のひらにあけ、しばらく宙にかざした後、思い切り放り投げる。小さな白い欠片たちは、あっという間に風に飛ばされ、蒼空に紛れて見えなくなった。

「‥‥ありがとうございました」その言葉が、自然と口をついて出た。

僕を育ててくれて、ありがとう。身勝手な生き方を許してくれて、ありがとう。たくさんの思い出を残してくれて、ありがとう。

再びカメラバッグを担ぎ、峠の道を下りはじめる。と、今までずっと心の中で蓋をしていた父との記憶が、次々に甦ってきた。小学校の夏休みの宿題の工作や昆虫採集を、大人げない力の入れようで手伝ってくれた父。大学を休学して旅に出ると電話で告げた時、「お前はいつも勝手だな」と寂しそうに呟いた父。母と一緒にラダックを訪れた時、レーの町を案内して歩く僕の後ろで、カメラを手にうれしそうにキョロキョロと周囲を見回していた父——。

父が逝って以来、初めて、僕は泣いた。

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