Category: Essay

ハウィーのこと


アラスカのカリブー・ロッジの愛すべき黒犬、ハウィーが、虹の橋を渡ったという報せが届いた。

カリブー・ロッジには、2017年の3月と、2018年の8月に、それぞれ数日ずつ滞在したことがある。最初に到着した日、一人でロッジ周辺の雪原の散歩に出かけた時、道案内をしてくれたのは、ハウィーだった。僕の10メートルほど前をぷらぷらと歩いて、立ち止まっては僕をふりかえる。僕の散歩につきあってくれていたのか、それとも、僕がハウィーの散歩にお供させてもらっていたのか。

初めて会った時から、まったく人見知りをしない犬だった。ラブラドール・レトリーバーとジャーマン・シェパードの混血だったハウィーは、僕がキャビンから外に出るたび、跳ねるように駆け寄ってきて、どすっと足元に体当たりして、頭をすりつけ、ウッドデッキに寝転がって、おなかをなでてくれとせがんだ。僕だけでなく、ほかのどの客に対しても。本当に、人なつこい犬だった。

ハウィーは、賢い犬でもあった。ベアー・ポイントという小高い丘の上まで、スノーシューを履いて登った時、頂上の近くに、純白の雷鳥の群れがいた。ハウィーの飼い主でカリブー・ロッジのオーナーでもあるジョーが、「ハウィー、待て」と小声で言うと、ハウィーは僕たち二人の後ろに下がって、吠えも動きもせず、僕が雷鳥の写真を撮り終えるまで、じっと待っていてくれた。

いつかまた、カリブー・ロッジに行きたい。ハウィーにまた会いたい。そう思いながらも、コロナ禍で身動きができないままでいるうちに、ハウィーにはもう、会えなくなってしまった。どうしようもなく寂しいけれど、ハウィーはきっと、ジョーやザック、彼らの家族たちに見守られて、穏やかに旅立っていったのだと思う。

さよなら、ハウィー。本当に、ありがとう。

ムネ・ツェンポ

去年の秋に買った、亡命チベット人医師ツェワン・イシェ・ペンバによる長編小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』。ダライ・ラマ六世の詩句を表題にしたこの壮大な物語、自分の本の作業に追われてなかなか手に取れなかったのだが、夏頃からじっくり少しずつ読み進めて、一昨日、最後まで読み終えた。フィクションではあるが、ある意味、ノンフィクション以上に当時のチベットのニャロンの人々の生き様を鮮やかに描き出した、凄い小説だった。

この小説の中で、印象深い場面はいくつもあるが、読み終えた後もずっと脳裏に残り続けている場面が、一つある。それは、物語の舞台となるタゴツァンの谷を占領した中国人民解放軍の政治委員タン・ヤンチェンと、村はずれにあるサンガ・チューリン僧院の高僧タルセル・リンポチェとの会話だ。

「新しい中国は、すべての人々が平等の権利を有し、平等を享受できる国になる」と力説するタンに、リンポチェは言う。「それは実に素晴らしい。我々のかつての王、ムネ・ツェンポの思想とまったく同じだ」と。

八世紀末頃に在位した古代チベットのこの王は、国内に蔓延していた貧富の差をなくすために、自身の分も含め、すべての土地と財産を分割して平等に分け与えた。だが何年か経つと、商才のある者は再び財産を増やし、ない者はまた貧困に陥るようになり、社会の格差は元に戻ってしまった。ムネ・ツェンポは二度、三度と土地と財産の分配を行ったが、そのたびに、しばらくすると国内の貧富の差は元に戻ってしまう。最後には、王による分配を止めるため、ムネ・ツェンポは暗殺されたと伝えられている、と、リンポチェはタンに語る。

タンとリンポチェの対話は、この後も平行線を辿ったまま続くのだが、このくだりを読んでいて、これはある意味、現在の中華人民共和国にもあてはまるな、と思わずにいられなかった。かつて、すべての人々に平等をもたらすという理想に燃える人々が建国したはずのこの国には今、世界でも類を見ないほど極端な貧富の差がはびこっている。人権の面でも平等にはほど遠い。チベットや東トルキスタンでの民族浄化は止まず、香港の民主化運動は文字通り叩き潰された。文化大革命の頃の危うい空気が、最近の中国には再び戻ってきているように感じる。

中国は、そしてチベットは、これから、どうなってしまうのだろう。

インタビューという仕事について

フリーランスの編集・ライターになって、かれこれ20年になる。周囲からは、旅行関係の文章や写真の仕事が中心なのでは、と思われがちだが、仕事の割合で言えば、昔も今も、主に国内でのインタビューの仕事が中心だ。ジャンルや対象は時期によって結構違うけれど、今までインタビューしてきた人の数をおおまかに数えると、たぶん、1000人近くにはなる。びっくりするくらい有名な(でも面白いとは限らない)人もいたし、世の中的にはまったく知られてない(でもめっちゃ面白いことが多い)人もいた。

今思い返しても、インタビュアーとして駆け出しの頃の僕の文章は、てんでダメだった。地の文とか質問とかの言葉選びで、書き手である自分の色を出さなければ、と力みかえっていた。ただ、それから数年間、試行錯誤しながらあがき続けているうちに、そうした力みも、少しずつ薄れていったように思う。引き出さなければいけないのは相手の色であって、自分の色ではない。そんな当たり前のことに気付くまで、ずいぶん時間がかかった。

僕がインタビューをする時、自分自身の位置付けは、できるだけ無色透明のレンズのような存在としてイメージしている。相手から放たれる言葉や表情という光を、何の色もつけないまま受け止め、焦点を合わせて絞り込んでいく。それが理想だ。僕の書くインタビュー記事からは、書き手の恣意という色が、どんどん抜けていった。面白いことに、仕事の取引先や周囲の人たちは、そういう無色透明なインタビュー記事を「ヤマタカさんらしいね」と言ってくれるのだけれど。

インタビュアーとしての自分は無色透明な存在でいい、と思えるようになったのは、個性的なインタビュアーとして名を成したい、とは思っていなかった、というのもあるかもしれない。インタビュー記事を書くのは楽しいけれど、他の人の素晴らしい曲をカバーさせてもらって歌うようなものだ、と感じていた。それはそれで意味はあるけれど、歌うなら、自分自身の歌を歌いたい、とずっと思っていた。それが『ラダックの風息』『冬の旅』という、いささか振り切れすぎた形で(苦笑)現れてしまったのだった。

でも、今こうして旅の本を何冊も書くようになって、あらためて思うのは、これまでのインタビュー仕事の経験の蓄積が、ものすごく役に立っている、ということ。少し前に受賞した斎藤茂太賞の審査員の方々から「人が描けている」という選評をいただいたのだが、文章で「人を描く」には、その人の特徴や言動、そぶりなどを、つぶさに気に留めておく必要がある。インタビューの仕事では、そんな観察は脊髄反射的にやっているので、旅のさなかでも、その経験はそれなりに生きていたのだと思う。

インタビューでも、自分自身の言葉でも、大切なのは、伝えたいことをどれだけありのままに伝えられているか、なのだろう。

本の価値を決めるもの

去年雷鳥社から刊行した『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』が、日本旅行作家協会が主催する紀行文学賞、第6回「斎藤茂太賞」を受賞した。

自分の本がこの賞の最終候補に残っているという情報を知ったのは、今年の5月。それから、コロナ禍などの事情で最終選考の実施が2カ月ほど遅れ、ようやく先週決定したのだそうだ。

雷鳥社の担当編集者さんから電話を受けて、最初に感じたのは、とにかく「ほっとした」という安堵の思いだった。これで、この本を作る際に力を貸してくれた大勢の方々に、少しだけ恩返しができた。……というより、土壇場で選にもれて関係者の方々をがっかりさせずに済んだ、という気持の方が強かったかもしれない。実際、去年一年間で、僕の本より売れた紀行本は山ほどあったし、メディアで数多く取り上げられた本も他に何冊もあったから。

世の中にある数多の文学賞は、読者が本を選ぶ時の参考にできる、ものさしの一つにはなると思う。ただ、そうした文学賞は、その本自体の絶対的な価値を定義したり保証したりするものではないとも思う。売上部数やメディア露出も、読者にとってのものさしにはなると思うが、それもまた、本自体の絶対的な価値を決定づけるものではない。

本は、それが内容的にある一定の水準を満たしているものなら、良し悪しや優劣を第三者が決めることにはあまり意味がない、と僕は思う。読む人それぞれが、好きか、そうでもないか、と判断すれば、それで十分だ。ある人にとってはありきたりの内容の本でも、別の誰かにとってはかけがえのない大切な本かもしれないのだから。

ただ、内容的にある一定の水準を満たせていない本、具体的には、誰かを不当に貶めたり傷つけたりする内容が含まれる本や、事実を誤認させる情報が載っている本、他の本のアイデアや内容を剽窃している本は、そもそも俎上に載せてはならないとも思う。残念ながら、書店にはそういう本も少なからず並んでいるけれど。

僕にとって、自分が書いた本に価値があるかどうかを実感させてくれているのは、読者の方々一人ひとりからお寄せいただいた、メールや手紙、SNSなどに書かれた、読後の感想だ。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』に対しても、本当にたくさんの感想をいただいた。冬のザンスカールへの想い、自然と人とのあるべき関係、人生の持つ意味について考えたことなど……。その感想の一つひとつが、僕にとっては、本当の意味でのトロフィーだと思っている。そうした感想に目を通すと、また全身全霊を込めて本を作ろう、と気持を奮い立たせることができる。

本の価値は、読者の方々、一人ひとりに、委ねるべきものなのだと思う。

「愛がある文章」について考えてみる

ある人やものごとについて書かれた文章を読んだ人が、「この文章には、愛がありますね」という感想を口にすることがある。この場合の「愛」とは、具体的に、何がどう作用して、読み手にそう感じさせているのだろう?

単に書き手が、対象の人やものごとに対して「好きだ好きだ大好きだ」と、好意をダダ漏れにしながら書いているからではないと思う。そういう好意ダダ漏れの文章は往々にして、第三者には押し付けがましくて読むに耐えないものになってしまう。ただ、きちんとテンションを抑えて書かれた文章から、そこはかとなく「愛」を感じることもあるので、その正体はいったい何なのだろう、とも思う。

僕自身、ごくたまに、読者の方から「愛がありますね」という感想をいただくことがあるが、自分の書いた文章の何がどう作用してそう感じさせているのか、自分でもよくわかっていない。「愛を込めて文章を書こう」と思っても、そもそも何をどう込めればいいのかがわからない。

そこで、発想を転換してみる。ある文章を読んで、「この文章には、愛がないなあ」と感じた時、その理由は何だろうか。

自分の場合、最初に思い当たったのは、「ちゃんと調べて書かれていない」とわかる文章を読んだ時だ。ノンフィクション、フィクションに関わらず、きちんと下調べをしていない文章は、大きな事実誤認があったり、テーマへの踏み込みが浅かったりする。もちろん、自分も含めて書き手はみな人間なので、間違うことも時にはあるが、そういうレベルではない事実確認の甘い文章に出くわすと、その書き手の思い入れはその程度なのかな、と思ってしまう。これは、僕がライターを生業にしているから、余計にそう感じるのかもしれない。

では、それなりに事実確認をして書かれているとわかる文章なのに、「なんとなく、愛がないなあ」と感じたとしたら、その原因は何なのだろう?

僕が思うに、それは、対象となる人やものごとを「ネタ」としてしかみなさずに書かれているから、だと思う。

文章を書いて、それを世に発表し、プロの場合はそれで報酬をもらうというのは、そもそもそんなに高尚な行為ではない。何をどう書くか次第で、対象となる人やものごとを誤解させたり、傷つけたりしてしまう危険性もある。書き手は対象に対して、「ネタにさせてもらっている」というある種の「疾しさ」を常に感じているべきだと思うし、その「疾しさ」を乗り越えてでも、その人やものごとについて書きたい、伝えたい、という思いが自分の中にあるかどうか、それによって生じる責任をすべて自分で背負えるかどうか、自問自答して確かめなければならないとも思う。

書き手のそういう逡巡や疾しさや、それでも書かずにはいられないという強い思いが、丁寧な準備と適切な技量と合わさることで、「愛がある文章」は生まれるのかもしれない。これはたぶん、文章だけでなく、写真などの世界でも同じではないかと思う。

よし。自分も、がんばろ(笑)。