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「チャーリー」


最近、毎週のように映画を観に行っている。しかも大半がインド映画。昨日観たのは、「チャーリー」。原題は「777 Charlie」、2022年公開のカンナダ語映画だ。

幼い頃に交通事故で家族を亡くし、心を固く閉ざしたまま生きる男、ダルマ。そんな彼のもとに、悪徳ブリーダーのアジトから逃げ出してきた子犬が棲みつきはじめた。むちゃくちゃな暴れっぷりの子犬に手を焼くダルマだったが、次第に心を通わせ合うようになる。チャーリーと名付けられたその犬によって、少しずつ、人間らしい心と生活を取り戻しはじめたダルマ。しかしそんな日々のつかのま、チャーリーが血管肉腫を患っていて、余命わずかであることが発覚。テレビに映る雪に強い興味を示していたチャーリーに本物の雪を見せようと、ダルマは手製のサイドカーにチャーリーを乗せ、マイソールからヒマーチャル・プラデーシュを目指す旅に出る……。

飼い犬に雪を見せるだけなら、マイソールから飛行機(ペット持ち込み可のはず)で北に飛ぶか、長距離列車を利用するなりした方が、圧倒的に早いだろうし、所要日数も少ないので結果的に安上がりになる……というツッコミは、この種のロードムービーには野暮なのだろう。でないと映画にならないだろうし。その他にも、いろいろツッコミどころはあったのだが、まあ……チャーリーが全部持って行ったよね……。信じられないほど表情が豊かで、彼女の一挙手一投足にすっかり心を奪われてしまった。あと個人的には、終盤のシムラーから雪山にかけての場面は、つい数カ月前に似たような場所で似たような経験をしていたので、いろいろフラッシュバックした(苦笑)。

避けようのない悲しい結末と、その先に灯る確かな希望。良い映画だった。

似合うかどうかを決めるのは

二十代から三十代にかけての頃、着る服といえば、黒、紺、グレーがほとんどだった気がする。何が自分に似合うかわからなくて、誰が着てもほぼ間違いのない、無難な色の服ばかり選んでいた。

今も、その三色の服の割合はかなり多いけれど、それ以外の色の服も、それなりに着るようになった。同じくらい無難なカーキやオリーブグリーンはもちろん、差し色に使いやすいTシャツでは、黄やオレンジ、赤、紫などもよく着る。そうした色が自分に似合うかどうか、人からどう見られているか、今ではまったく気にしない。気が向いた時にそれを着ると、少し気分が上がるから着ている。それ以上の理由はない。

周囲の人も、ほんの少し見慣れてくれば、その服がその人らしさなのだと、しぜんと感じるようになる。似合うかどうかを決めるのは、自分自身なのだと思う。

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パオロ・コニェッティ『狼の幸せ』読了。著者の出世作となった『帰れない山』が面白かったので、この本も楽しみにしていたのだが、二つの点で期待を裏切られた。一つは、タイトルや内容紹介から受ける印象に比べると、狼が物語に関わってくる割合がかなり物足りなかったこと。確かに、人の数ある生き方の一つのメタファーとして狼が描かれているのはわかるのだが、ほとんどが人間関係にまつわる物語で、狼自体は出てこなくても構わないほどのレベルだったので、ちょっと拍子抜けした。

もう一つは、都会での生活に疲れてモンテ・ローザの麓の村に逃れてきた作家の中年男性が、同じレストランで働くようになった十歳以上年下の女性と恋に落ちる……という展開が、どうにもしんどいなあ、と感じられてしまったこと。作家である主人公は、明らかに著者自身をモデルにして描いているとわかるので、なおさら。私小説の趣の濃い作品だし、実際にそういう経緯で恋仲になった女性がいたのかもしれないが、正直、あいたたた……と感じてしまった。まあ、自分も同じ物書きで中年のおっさんであるがゆえの、同属嫌悪なのかもしれないが。

衰えていく国

スーパーに食材の買い出しに行くと、何もかも値上がりしてるなあ、と感じる。野菜や肉、卵などはわかりやすく高くなっているし、パッケージされた商品も、値上がりしてるか、内容量が減らされてるか、あるいはその両方だったりする。

僕の住んでいる西荻窪は、駅の界隈にたくさんの個人商店が集まっているのだが、閉店したまま次が決まらず、空いたままになってる物件も結構目につく。隣駅の吉祥寺は、住みたい街ランキングでトップ争いの常連だが、そんな街でも空き店舗物件があちこちにある。大手のデパートの中もスカスカで、埋められないスペースを安い衣料雑貨のワゴンセールとかで誤魔化してるところも多い。無人で、カプセルトイの機械を並べただけのところもあったり。

都心の繁華街もそうだ。原宿や渋谷のような一等地でも、かつてはお洒落なアパレルショップだった場所が、うらぶれた空き家になっている。新しいショッピングモールが次々に開業する一方で、既存のテナントビルはスカスカのまま閑古鳥。対照的に元気なのは新大久保界隈とかで、アジア各国の商店や食堂がぎっちぎちにひしめき、どこかが空いてもすぐに埋まるというが、日本人経営の店はあまり見当たらない。

近所で行きつけにしてる老舗のパン屋さんで、おひるによく買って食べていた名物のカレーパンが、ある日、1個420円になっているのを目にした時は、さすがにびっくりした。地元の人々に愛されている、良心的なお店なのだ。そういう店がそこまで値上げをしなければやりくりできないほど、今は何もかもが厳しい状況になっている。

先日、1ドルが160円台になったという経済ニュースで、日米の金利差が原因云々という記事が溢れていたけれど、それ以前に、日本円の価値が根本的に下がってしまっているのだと思う。日本という国そのものが刻々と衰退し、貧しくなっているのだ。取材で海外の国々との間を行き来していると、いろんな場面でそう感じる。日本の社会自体から、力が失われていると。

そう遠くないうちに、海外旅行などは日本人にとって、一部の富裕層に限られた娯楽になってしまうのではないかと思う。自分自身の仕事のやり方も、あらためて、いろいろ考えてみなければならないと感じている。

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石川美子『山と言葉のあいだ』読了。仏文学の研究者でもある著者が、自身がフランスで生活していた時の経験と、デュマやバルザック、スタンダールといった古今の作家たちにまつわるエピソードを絡めて書き綴ったエッセイ集。静謐で清々しい文体で、読んでいて心が落ち着く。とりわけ印象に残ったのは、マダム・ミヨーにまつわるエッセイで、数奇な運命の巡り合わせに滲む著者の思いに、胸を打たれた。

「PERFECT DAYS」

ヴィム・ヴェンダース監督の作品は、これまでにもそれなりの数を観てきた。個人的にものすごくフィットする好きな作品もあれば、正直そこまでピンと来ない作品もあった。で、最新作の「PERFECT DAYS」に関して言えば……大当たりだった。本当に素晴らしかった。

東京の下町に暮らす初老の男、平山は、渋谷界隈にある公衆トイレの清掃を生業としている。アラームもかけずに早朝に目覚め、植木に水を吹きかけ、はさみで口髭を整え、ツナギに着替える。缶コーヒーを買い、カセットテープの音楽を聴きながらワゴン車で出勤し、各所のトイレを黙々と手際よく掃除していく。神社の境内でサンドイッチと牛乳のおひる。大木の梢の木漏れ日を、コンパクトフィルムカメラで撮る。仕事を終えると、地元の地下街の飲み屋でいつもの晩酌。夜は、古書店の百均で買った文庫本を読みながら眠りにつく。

几帳面にルーティンを反復し続ける平山の日常は、同じような毎日に見えて、実は常に少しずつ違っている。同じように見える木漏れ日が、実は唯一無二の瞬間の連なりであるように。平山自身も、過去の苦い記憶と後悔と、自分自身の行末に対する漠とした不安を抱えている。それでも彼は、次の新しい朝を迎えるたび、空を見上げ、目を細める。

何気ない、でも、かけがえのない日常。その連なりこそが人生であり、だからこそ、すべての人の人生には、何かしらの意味があるのだと思う。

Wi-Fiとプリンタですったもんだ

年末の押し迫ったこのタイミングで、自宅のWi-Fiネットワークとプリンタの再整備をしなければならなくなった。

ソフトバンクから配給されている回線接続用のルーターを交換するようにという要請が来たので、しばらく前に購入だけしてあった事務用のプリンタの入れ替えと同時に作業してしまおうと、相方のリモートワークがなくて自分の急ぎの仕事もない今週に実施することにした。しかし……新しいプリンタがAirMac Time CapsuleのWi-Fiネットワークをまったく認識してくれず、有線で直結してもダメで、設定をいじってるうちにAirMac Time Capsule自体が不具合を起こして、Webにつながらなくなってしまった。

さすがにめちゃくちゃ焦って、どうにかこうにかWebへの接続だけは回復させたのだが、こりゃもうあかんということで、AirMac Time Capsuleは退役させることを決断。翌日、新宿のヨドバシで、バッファロー製の最新のWi-Fiルーターを買ってきた。最新仕様だけあって、Webにも一発で接続し、Wi-Fiネットワークにプリンタやオーディオ機器を組み込むことにも成功。無事に自宅作業環境を復活させることができた。ふう……疲れた……。

年の瀬に何やってるんだろ、僕は。

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川内イオ『キミのお尻にカビを生やしちゃって、ごめんなさい。〜稀人ハンター子育て日記〜』読了。川内有緒さんの『自由の丘に、小屋をつくる』の後に読んだので、同じ家族の同じ時期の物語を別の側面から辿っていくという、面白い読書体験になった。日々予測不能の子育てにまつわるエピソードやトラブルが、軽妙な、でもとても誠意のある文体で綴られている。その誠意は読者に対してだけでなく、いつかこの本を読む時が来るであろう娘さんに対するものなのかなと思う。