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これから、世界は

自宅のネットワークやプリンタの設定やら、3カ月分の連載原稿の納品やら、新規案件の打ち合わせやら、確定申告の下準備やら、あれやこれやがとりあえず片付いて、ようやく少し落ち着いた状態になった。あさってから岡山に帰省し、年明けには神戸。2023年も、あともう少しで終わる。

2024年、世界は、どうなるのだろう。ロシアとウクライナ。イスラエルとパレスチナ。世界中のあちこちで、戦禍に見舞われている罪なき人々がいる。人間にとっての尊厳とは、正義とは何なのだろう、と考え込んでしまう。アメリカの大統領選も気がかりだし、日本の政治もめちゃくちゃだし。

これから、世界は、さらにぼろぼろと壊れていくのかもしれない。そんな中で、一人ひとりの人間にできることがあるとすれば……間違っていることに対してはきちんと声を上げ、選挙があれば必ず一票を投じてくる、ということに尽きるのかなと思う。それでも、どうにもならないことばかりかもしれないけれど、ただ諦めて傍観していては、何の歯止めにもならない。

どうなるのかな、世界は。

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アーシュラ・K・ル・グィン『所有せざる人々』読了。ヒューゴー賞とネビュラ賞のダブル受賞作という評価に違わぬ、凄い長編だった……。アナレスとウラスという二つの惑星で紡がれていく、物理学者シュヴェックの物語。アナレスとウラスの環境や歴史、社会制度、文化などについて、膨大な情報量の設定が緻密に組み上げられていて、その設定の舞台上で、それぞれの惑星で起こった出来事が、章ごとに交互に語られていく。シュヴェックはなぜ、アナレスを離れてウラスに向かったのか。時の流れがくるりと円を描いて繋がるかのように、物語は最後に彼の目的を明らかにして終結する。さすが、ル・グィン……。ゾクゾクするような読書体験だった。

本の値段

あらゆるものの値段が、上がっている。

ほぼ毎日、食材を買いにスーパーに行っているので、野菜や肉、調味料などの値段がじりじり上がってきているのは、日々実感している。コンビニは普段あまり利用しないのだが、この間、ひさしぶりに入った時、弁当の類の値段の高騰ぶり(そして容量は減っている……)にびっくりした。

書店に行くと、新刊本の値段も上がっている。単行本は、仕様にもよるが、2000円を超えるものも珍しくなくなった。文庫本も、1000円台のものが増えた気がする。ほんの少し前まで、出版業界には「2000円を超えると本は売れなくなる」という、「ラーメンは1000円を超えると売れなくなる」というのに近い基準の見方があり、それは実際かなり当たっていた部分もあったように思う。僕自身の著作も、これまでは本体価格1800円+税=1980円という、2000円以内に収めるような価格設定をしてきた。

しかし、この間出した新刊『ラダック旅遊大全』では、本体価格を2000円に設定せざるを得なかった。理由はシンプルで、本に使う用紙やインクなどの値段が、ここ数年でめちゃめちゃ上がっているからだ。あらゆる面で原価を切り詰める工夫をしても、単行本の値段を税込2000円以下に収めることは、とても難しくなってしまった(そういえばラーメンも、1000円を超える値付けをする店が珍しくなくなった気がする)。

値段が一冊2000円を超えるのが当たり前になってしまった今、紙の本はもう、ぜいたく品の部類に属する存在になってしまったのかもしれない。そういうモノを作る仕事をしている以上、お金を払って買ってくれた人を後悔させないよう、今まで以上に丁寧に本づくりをしていかねば、と思っている。

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川内有緒『自由の丘に、小屋をつくる』読了。ほんの少し前まで、何から何まで自分たちで作るのが当たり前だった、ラダックの人々の暮らしを思い起こしながら読んだ。「自分たち」で作る、というのがポイントなのかな……。互いに手伝い、助け合いながら、生きるために働き、生きるために生きる。そうした日々の暮らしが、人と人との結びつきを形作っていく。社会のシステムが複雑化すると見失われがちな人のありようの原点は、実はちょっとした思い切りで、また見つけ出せるのかもしれない。

歩み去る人々

アーシュラ・K・ル=グウィンの作品を、一冊々々、少しずつ、読み進めている。この間、『風の十二方位』という短篇集を読み終えた。収録されていた17篇の中で、とりわけ強く心に残ったのは、「オメラスから歩み去る人々」という物語だった。

文庫本でほんの十数ページほどのこの掌篇は、オメラスという架空の街にまつわる物語だ。オメラスでは、諍いも何もなく、誰もが幸福に満ち足りた日々を過ごしている。オメラスの人々の幸福は、ある建物の地下の牢獄に幽閉されている、一人の子供の苦悶と引き換えに与えられている。誰かがその子供を救い出そうとしたら、オメラスの幸福は失われてしまう契約になっている。オメラスに住む人々はみな、そのことを知っている。

ほとんどの人が、幽閉されている子供のことを、見て見ぬふりをしたまま、日々を過ごしている。しかし時に、その子供の存在を知った少年や少女、あるいはもっと年老いた人々が、何も言わずにオメラスを離れ、ぽつりぽつりと、何処かへと歩き去る。何処へ向かうのかはわからない。でも彼らは、自分の選んだ行き先がわかっている。

ロシアとウクライナの間で戦争が始まってから、一年が経った。トルコとシリアの地震で、五万人以上もの命が失われた。ミャンマーでは、国軍が無辜の人々を弾圧している。日本は、どうだろうか。今の社会の中にはびこる理不尽なものごとの数々に対して、僕たちはぬるま湯に浸ったまま、見て見ぬふりをしてはいないだろうか。

僕も、見て見ぬふりをしない勇気を持ちたい、と思う。

Aside

暴力は結局、関わるすべての人を滅ぼしてしまう。
それを防ぐために人が編み出した手段が、司法であり、政治であり、民主主義なのだと思う。
我々は今、人としての原点に立ち戻らなければならない。

「メイド・イン・バングラデシュ」

バングラデシュでは数少ない女性の映画監督、ルバイヤット・ホセイン監督の作品「メイド・イン・バングラデシュ」を岩波ホールに観に行った。予想通りというかそれ以上に、重い内容の映画だった。

舞台は、バングラデシュの混沌の首都ダッカ。衣料品の縫製工場で働くシムは、工場の火災で同僚を失ったのを機に、従業員の労働組合を作ろうと決意する。労働者保護団体からの助言を受けながら、同僚たちとともに密かに署名を集めたり、職場の写真を撮影したりするシム。劣悪な労働環境、未払いのままの給料、腐敗した経営者と役人、そして社会に根深くはびこる女性蔑視。傷つき打ちのめされながらも、労働組合設立のために奔走するシムの目指す先には……。

「このTシャツ、1日何枚作ってる?」「1650枚」「あなたたちのひと月の稼ぎは、このTシャツ2、3枚分」

僕たちの身近で販売されているファストファッションの衣類の多くは、シムたちのように劣悪な環境と安い賃金で働く労働者たちからの搾取によって成り立っている。衣類だけでなく、皮革製品や、釘やネジなど、さまざまなものがそうだ。そうした搾取の上に僕たちは胡座をかいて、見て見ぬふりをしているのだと思う。この作品は、若い頃からバングラデシュでの労働闘争に関わってきた女性の実体験をもとにしている。フィクションではあるが、投影されているのはまぎれもなく、バングラデシュの、そして世界の現実だ。

ハッピーエンドともバッドエンドとも言えない幕切れは、バングラデシュの女性たちの闘いが、まだこれからも続いていくことを示している。