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ゆるめていく

昨日の夜から今日の昼まで、12時間以上寝た。途中、午前中にトイレに起きたりもしたのだが、どうにも眠くて、また横になって眠り続けた。

考えてみれば、タイでの四週間はほぼ一日も休みのないスケジュールだったし、夏にはスピティとラダック、帰ってきてすぐに雑誌のグラビア記事の制作など、ずいぶん早いペースで飛ばし続けてきたように思う。このあたりでゆるめていかないと、先々で無理が出てきそうな気もする。

昼過ぎに起きてからは、おひるにインスタントラーメンを作り、部屋中に掃除機をかけ、積もった埃を雑巾で拭き、昨日買っておいたまほろばの豆でコーヒーをいれた。ようやく、気持が落ち着いた。ペースをゆるめて、自分の歩幅で。

自分が見つからない旅

「自分探しの旅」というと、割とコアな旅好きの人の間では、面白おかしく揶揄されるか、半笑いでスルーされるかのどちらかなんじゃないかなと思う。いつ頃からそういう風潮になったのかはわからないけど、「旅に出ようぜ! 放浪しちゃおうぜ! そしたらきっと新しい自分が見つかるよ?」みたいな主張をする旅行記が、世に出回るようになったからかもしれない。

個人的には、若い時期に何か行き詰まることがあって、「旅に出て、新しい自分を見つけたい!」みたいな動機というか衝動で、ある程度長い期間の一人旅に出るのは、むしろとてもいいことなのではないかと思っている。「どうせ旅に出たって人生何も変わらないし」と、シラけて何もしようとしない人よりよっぽどいい。僕自身、二十二歳の時の最初の海外一人旅は、どん詰まりに行き詰まったあげくに選んだ道だったし。

ただ、そういう「自分探しの旅」で「自分」が見つかるとはかぎらない。というか、まず見つからないと思う。「見つかった!」と満足してる人には「よかったですねえ」と言うしかないが、たぶんそれは「見つかった」と思い込んでるだけ。僕の時は、自分が見つかるどころか、世界というものの大きさ、美しさ、優しさ、怖さ、複雑さ、醜さ‥‥そして不条理さと理不尽さを、これでもかというほど見せつけられて、自分がいかに何も知らなかったかということを思い知らされただけだった。僕の最初の旅は、「自分が見つからない旅」だったと言っていいかもしれない。

でも、そんな風に世界に打ちのめされてしまう旅だったとしても、無駄な経験は一つもないと思う。いつかどこかで、何かにつながるヒントが必ずある。僕の場合もあくまで結果論だけど、今の仕事に携わるようになったのは、あの「自分が見つからなかった」最初の旅の経験があったからこそだったから。

まだ旅を知らない人には、「自分探しの旅」でも何でもいいから、外の世界に飛び出して、ボッコボコに打ちのめされてみることをおすすめする。

理不尽な仕打ち

何かが思うように進まなかったり、うまくいかなかったりして、ため息をつきたくなるような時、本棚にある色川武大の「うらおもて人生録」に手が伸びる。この本については前にも書いたことがあるけれど、今でも何か思い悩むたびにページをめくりたくなる本だ。

人間が持っている運は、プラスマイナスゼロ。15戦全勝で勝ちっ放しのまま終えられる人はまずいない。勝てる時にしっかり勝てる最低限の実力をつけ、8勝7敗あたりを狙って、9勝6敗にまで持って行けたら大成功、と戦後の賭場で修羅場をくぐってきた色川さんは書く。

自分自身をふりかえってみると‥‥やっぱり、とんとんくらいなのかな。同年代で会社勤めしてる人に比べればしがない収入で、しかも不安定なフリーランサー。その代わり、行きたい時にどこにでも行けて、好きなことを本に書けるという自由を享受している。社会的な立場の弱さからいろいろえげつない苦労もさせられるけれど、社内で逃れられない人間関係に振り回されるようなストレスはない。自分の名前で書いた本で、喜んでくれる読者の方がいてくれるのは、何物にも代えられない嬉しさだけど。

たぶん人はみな、プラスマイナスゼロの運の波間で、8勝7敗か7勝8敗のあたりの浮き沈みをくりかえしながら、懸命に生きているのだと思う。やるべきことを真っ当に積み重ねていけば、だいたいそうなるのだろう。最低限の積み重ねをせずに大負けをくりかえして人生を呪ってる人もいるが、それは実力からなるべくしてなった結果だと思う。

ただ、時に運は残酷なことをするもので、どう考えても理不尽な仕打ちを人に与えることがある。災害や事故に巻き込まれたり、別に不摂生でもないのに病に冒されたり。そういう話を聞くたびに気の毒に思うし、少なからずぐさりとくるものもあるが、同時にそれは、自分自身の弱さを見直すきっかけにもなる。それまで自分が抱えていた苦労や悩みなど、ちっぽけなものにすぎないのだと気づかされる。

自分にだって、いつ、そういう理不尽な時が訪れるかわからないのだ。やれる時に、やれることを、やる。最終結果がプラスマイナスゼロか、もっとマイナスになったとしても、それも実力と納得して、笑って終えられるように。

今、できることを

子供の頃、自分の行手には、無限に思えるほど長い人生の時間が横たわっていると感じていた。いつかはそれが途切れることなど、想像もつかなかったし、考えもしなかった。

一般的な人間の寿命の半分ほどの時間を生きてきた今、自分の行手に横たわる時間はそれほど長くはなく、だいたい想像できる範囲だ。今は、ずっしり重いカメラバッグを担いで標高5000メートルの山の中を歩き回ったりしているが、それができる時間も、あと30年もないだろう。

もしかすると、まともな人の感覚で考えれば、行手に横たわる時間の終盤に備えて、今からあれこれ準備しておくべきなのかもしれない。でも、僕は‥‥今、できることを、めいっぱいやるにはどうすべきか、それをまず考えたい。後になって、あの時、あれをやっておけば、ああいう本が作れたのに‥‥という後悔だけはしたくない。先のことを憂うより、今の自分が出せる力を出し切りたい。

それで、どこまでやれるのか。でも、やるしかないな。

「サニー 永遠の仲間たち」

「サニー 永遠の仲間たち」

先日観た「きっと、うまくいく」についてのWeb上での反応を見ていたら、かなり多くの人が、この「サニー 永遠の仲間たち」と比べて感想を書いていた。僕もこの映画の予告編を目にした記憶はあったのだが、本編は見逃してしまっていたので、Apple TVで借りて観てみることにした。

「セブン・シスターズ」とは、韓国ではトラブルメーカーの高校生を意味する隠語なのだという。この映画の七人の主人公たちは、文字通りのセブン・シスターズ。ラジオ番組から「サニー」というグループ名をつけてもらった七人は、向かうところ敵なしのハチャメチャに楽しい日々を過ごしていた。ある事件が起こるまでは‥‥。それから25年。余命二カ月の末期ガンに侵された元リーダーのチュナは、病院で偶然再会した仲間のナミに言う。「死ぬ前にもう一度、サニーのみんなに会いたい」と。

1980年代と現代のソウルを行き来して展開されていく物語。記憶の中の日々は明るい色彩と輝きに満ちていて、誰もが希望にあふれた人生と、変わることのない友情を信じて疑わなかった。散り散りになっていた今の彼女たちは、それぞれの事情やしがらみのせいで、必ずしも思い描いていた人生を歩めてはいない。それでも、チュナの呼びかけをきっかけに、彼女たちは気づくのだ。もう一度、なろうと思えばなれるのかもしれない。自分自身の人生の主役に。

チュナの余命という重い軸はあるものの、80年代のポップ・チューンに彩られたこの作品のトーンはとても軽やかで、コミカルな場面もたくさんある。だからこそ、観ていて余計にせつなくなる。もう、取り戻すことのできない時間。それでも、彼女たちは軽やかにステップを踏む。何度も、何度でも。