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一年が過ぎて

3月11日。東日本大震災が起こってから、一年が過ぎた。

一年前のこの日、凄惨な光景が映し出されるテレビの映像を見ながら感じていたのは、「またか」という思いだった。その半年ちょっと前の2010年8月に滞在していたラダックでは、集中豪雨による洪水で600人以上の命が奪われていた。僕は、トレッキングで訪れていた山の中で、濁流に呑まれそうになりながらも命からがら生き延びたのだが、その後は土石流で変わり果てた被災現場の写真を撮って、日本に送ることくらいしかできなかった。自分にとってかけがえのない場所や人々を襲った悲劇を目の当たりにした時の無力感とやりきれなさ、情けなさは、胸の奥にこびりついたままだ。震災の映像を見た時、その感覚がまざまざと甦った。

東北や北関東の被災地に比べれば、当時の東京の状況はどうということはなかった。計画停電なんて、ラダックは無計画停電が当たり前だし(苦笑)、菓子パンを買い占めたところで、食べ切れずに腐らせるだけだし。自分自身については、必要な用心さえしていれば何とでもなる、と開き直っていた。ただ、自分が被災地の人々に対して何か効果的なことができるのかと考えると、ラダックの洪水の時と同じ無力感に苛まれて、暗澹とした気分になった。

震災から数カ月後、父が急に逝ったことも、僕と家族にとっては大きな打撃だった。去年の初め頃から実現を目指していたラダックのガイドブック企画も、こうした想定外の出来事でたびたび頓挫し、ほとんど諦めかけた時期もある。そんな僕を奮い立たせてくれたのは、日本で、ラダックで、僕を支えてくれたたくさんの友人たちだった。

ラダックの洪水や東日本大震災の時から感じていたあの無力感は今も消えないけれど、自分が選んだ生き方の中で、自分にできること、やるべきことを一つずつ積み上げていこう、という気持にはなれた気がする。僕にとって、それは本を作ること。それしか能のない役立たずだけど(苦笑)、やるしかない、と。

みんながそれぞれの人生の中で、できることを精一杯やっていれば、きっと誰かに繋がる。今はそう信じている。

夏葉社「さよならのあとで」

死は、誰のもとにも平等に訪れる。死からは誰も逃れられないし、愛する人を失う悲しみからも、誰も逃れられない。誰よりも大切な存在だった人でさえ、時に唐突に、理不尽な形で失われていく。

さよならのあとで」は、英国の神学者で哲学者でもあった、ヘンリー・スコット・ホランドの「Death is nothing at all」という詩の本だ。詩集ではなく、この本には、ただ一編の詩しか収録されていない。四十二行の詩と、挿絵と、あとがき。ただそれだけなのに、ページをめくるたび、こんなにも胸を突き動かされるのはなぜだろう。何も印刷されていない、真っ白なページでさえ。この本でしか伝えられない、この本にしか届けられない思いが、一文字一文字ににじんで見える。

この詩は、唐突に立ち去ってしまった大切な人から届けられた言葉なのだと思う。私のことは何気なく心の隅にピンで留めて、これからも続いていく日常を精一杯生きてほしい。私はすぐそこで待っているから、と。僕にとって、それは父の言葉だった。

この「さよならのあとで」を編んだ夏葉社の島田潤一郎さんは、吉祥寺でたった一人で出版社を営んでいる方だ。三年前に会社を立ち上げる前、島田さんは親友でもあった従兄の方を交通事故で亡くした。その時からずっと、島田さんはこの本を作り続けてきたのだという。この本を出すために出版社を始めたといっていいほどの、ありったけの思いを込めて。これは、とても個人的な思いで作られた本だ。でも僕は、そういう個人的な思いを核に作られた本だけが、人の心を突き動かす力を持ち、ずっと読み継がれていくのだと思う。

大切な人を失った人のもとへ、この本が届きますように。

失くしてから気付くこと

朝、温かい布団の中でうとうとしていた時、夢を見た。どこかの台所で、実家の人間たちと食卓を囲んでいる夢。母がいて、妹とその家族がいて、そして父がいる。たぶん、ハヤシライスか何か食べていたのかな。

少し前までは、当たり前だと思っていた光景。でも今は、それがどれだけかけがえのない時間だったか、わかるような気がする。

たぶんそれは、家族との関係に限ったことではないのだろう。友達や仕事仲間と一緒に過ごす時間は、何でもないようであっても、実はとても大切なものなのだと思う。今頃気付くなんて、バカなんじゃねーの、ってことだが。

失くしてから気付くことは、実はとても多い。

父とカメラ

富士フイルムが、X-Pro1という魅惑的なカメラを発表したというニュースをネットで知る。父が生きていたら、交換レンズも含めてごそっと買ってしまいそうなカメラだ(笑)。

ゴルフもパチンコも競馬もやらず、趣味らしいものもほとんどなかった父が、唯一と言っていいほど凝っていたのが、カメラだった。フイルム時代はキヤノンやミノルタを使い、デジタルに移行すると、(効率が悪いにもかかわらず)キヤノンとニコンの両方を担いで海外旅行に行くようになった。パソコンに写真をバックアップする環境作りについて、根掘り葉掘り聞かれたこともあったっけ。

可愛い孫たちを除けば、父が撮るのは、風景ばかりだった。高校の教師として働き続けた父。「人には疲れた。撮るのは風景でいいよ」と、前に僕にもらしたこともあった。安曇野にもう一つの家を構えて、山と自然を撮り歩いていたのは、そういう理由もあったのかもしれない。生まれつきの色覚異常で、色を見分けるのにも苦労していたはずなのに、そんなことは気に病むそぶりもなかった。

僕がしばらく前から写真も仕事にするようになったことを、父がどう思っていたのかは知らない。友人の方から、父が「いや、写真は息子には敵わないですよ‥‥」と笑って話していた、とは聞いたのだけれど。意外と負けん気の強い人だったから、そのうち自分もどこかのギャラリーで個展をやるぞ、というくらいには思っていたのかもしれない。

空の向こうで、父はどんなカメラで、何を撮っているのだろうか。

光の射す道を

大晦日と元旦は、岡山から来た実家の人間たち——母と妹の一家と、安曇野の家で落ち合って過ごした。冬至蕎麦を食べ、村営の温泉にどっぷり浸かり、雑煮とおせちを食べ、初詣に行っておみくじを引き‥‥。ここ数年変わらない、いたって普通の過ごし方。

違うのは、去年までは家族の輪の中心に当たり前のようにいた、父がいないこと。何をしていても、ひとり足りない、とどうしても思ってしまう。

それでも時間は流れ、人生は続いていく。僕たちは歩いていくのだ、光の射す道を。