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謝孝浩「スピティの谷へ」

この「スピティの谷へ」という本の存在を初めて知ったのは、ずいぶん前‥‥僕がアジア横断の長い旅を終え、フリーランスの立場で物書きの仕事をするようになって、しばらく経った頃だったと思う。その時は、書店で気になって手に取ったものの、持ち合わせがなかったか何かで買わなかったのだが、「インドのこんな山奥のことを本に書く人がいるんだ」という記憶は頭の隅に残っていて、数年後に自分がラダック取材を思い立った時のヒントにもなった。そして一、二年ほど前、今はなき新宿のジュンク堂で、この本の在庫が残っていたのを見つけて購入。いろいろ落ちついたらゆっくり読もうと思い続けていたのだが、ようやく読み終わった。

僕自身、スピティには2008年の初夏に二週間ほど滞在したことがある。ラダックやザンスカールに比べると、スピティはどことなく穏やかで、谷間をゆるやかに吹き抜ける風の冷たさが印象的だった。特に、ランザという村の民家に泊めてもらった時に見た、透き通るような朝の光に包まれた村の風景は、忘れることができない。出会った村人たちのおっとりとした笑顔も、いつかまたここに戻ってきたい、と思わせるものだった。謝さんの文章には、そうしたスピティの穏やかな自然や人々の暮らしぶりが丁寧な筆致で描かれているし、二人のフォトグラファーによる写真の数々は、ページをめくるたびにスピティへの憧憬を後押しする(一人ぼっちであくせく取材してた身としては羨ましくもある、笑)。個人的には、ダライ・ラマ法王のカーラチャクラ灌頂の会場で、顔なじみの村人たちと次々に再会した時のくだりが、謝さんの人柄が表れている気がして、とてもいいなあと思った。

ただ、読み終わって感じたのは、謝さんはなぜスピティにそこまで惹かれたのか、ということ。紀行文にそういう書き手の個人的な心情を書き込むというのは、もしかするとスマートではないのかもしれない。でも、僕が「ラダックの風息」を書いた時は、自分がラダックに心惹かれた理由を突き詰めることにものすごくこだわったし、書くのに苦しんだし、それでも書き切れたという確信が持てないくらいだった。同じインドのチベット文化圏に心惹かれた人がなぜこの場所を選び、通い詰めたのか、その思いの根っこの部分をもっと知りたかったというのは正直な感想だ。

それでも、謝さんにとってスピティがかけがえのない場所だということは、この本から十二分に伝わってくる。あとがきにも書かれていたけれど、東京のような街で暮らしていても、遠い彼方にもう一つの大切な場所の存在を感じられるというのは、とても幸せなことだなと思う。

平積み

今日は午後に打ち合わせの予定があったのだが、朝になって、先方が体調不良とのことで急にキャンセル。あれこれ仕切り直した後、夕方に入っていた取材の少し前に、都心に出かける。

新宿の紀伊國屋書店に行くと、2店舗とも旅行書コーナーで「ラダック ザンスカール トラベルガイド」を、どーん!と平積みしてくれていた。毎月々々発売される膨大な数の新刊書籍の中で、平積みの面積を確保してもらえるというのは、どんなに恵まれたことか。ありがたいなあ、と素直に思う。

一冊でも多く、一人でも多くの人の手に渡るといいのだけれど。届け!

共に旅してこそ

この週末から、「ラダック ザンスカール トラベルガイド インドの中の小さなチベット」が書店に並びはじめた。実際に手に取って読んでくれた友人・知人の方々から、感想のメールや電話などを何件もいただいている。曰く、「適度にマニアックなのがいい」「折込地図がいい」「情報の広さと濃さのバランスがいい」などなど。そういう感想を目にするたび、じんわりと嬉しくなる。

ある方からは、「とても綺麗にできているので、ガイドブックとして現地に持って行って、ボロボロになってしまうのがもったいないくらい。でも、汚れてしまうほど使い込まれるのが、作者としては楽しみなんでしょうね」という感想をいただいた。確かに、本の作り手としては、自分が手がけた本は大切にしてもらえるに越したことはない。でも、ガイドブックは、使い込んでナンボというか、かの地を共に旅してこそ、真の役割を果たせる本だと思う。だから、読者の方には遠慮なくガンガン使い込んでもらいたいし、その方が僕も嬉しい。

「それでもやっぱりもったいない‥‥」という方は、もしよかったら、保存用にもう一冊どうぞ(笑)。

春の宴

昨日は、前の日に予約を入れておいた歯医者へ朝イチで出かける。奥歯の詰め物が部分的に欠けてしまったので、その補修に。起き抜けでいきなり歯を削られるのはかなり憂鬱だったが、まあ仕方がない。

いったん家に戻り、出版社から配送されてきたラダックガイドブックの見本誌を受け取って、すぐに出かける。代官山蔦屋書店へ。旅行書コーナー担当の方に、出版社の編集者さんと営業担当さんとご挨拶。「もう、平積みスペースを用意して待ってますよ!」と言っていただいて、恐縮至極。一人でも多くの人の目に触れるといいのだけれど。

夜は、六本木のスイートベイジルで、畠山美由紀さんのライブ「春の宴」を観る。素晴らしかった! 穏やかで、朗らかで、たおやかで、時に悲しく、でも美しく‥‥。生まれてこのかた、今まで観てきた中でも、最高のライブだったと思う。間違いなく。

いろいろなことが報われて、ご褒美をもらっているような気分になった。

安楽椅子

昨日の夕方、出版社から「ラダック ザンスカール トラベルガイド」の見本誌が二冊届いた。梱包を開けて本を手に取り、カバーや帯、折込地図の具合を確かめ、ぱらぱらとめくってみる。この一年半、必死になって作り続けてきた本。よかった。ちゃんと一冊の本になっている。

嬉しいとか、報われたとか、そういうわかりやすい感情は、不思議と湧いてこなかった。僕はただ、ぼんやりと、実家の和室の縁側にあった安楽椅子のことを考えていた。

去年の夏、イタリア旅行中に急死した父の葬儀のため、僕はラダックでの取材を中断して、岡山にある実家に戻っていた。葬儀の後、父の遺影と遺骨は、家の西の端にある和室に置くことになった。その和室は家の中でも一番静かな場所で、縁側の外は庭に面していて、とても涼しかった。

縁側に、一脚の古ぼけた安楽椅子がある。ふと目をやると、その安楽椅子の肘掛けの上に、本が一冊、置いてあった。それは少し前に出たばかりの、僕とライターの友人が共同で書いた電子書籍についてのハウツー本だった。たぶん、父がここで読んでいたのだろう。電子書籍なんて、およそ一番縁遠いはずの人間なのに。

僕が新しい本を出すたびに、父は、安楽椅子にもたれながら、僕の本を読んでくれていたのだと思う。自分の本がそんな風にして父に読まれていたことを、僕はそれまで想像すらしていなかった。でも、もうこの安楽椅子で、父が僕の本を読むことはない。そう考えると、胸がぐさっと抉られるような思いがした。

あれから九カ月。僕の新しい本を、父は読んでくれるだろうか。あの空の向こうの安楽椅子で。