「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」


イギリス南部の街、キングスブリッジで暮らす、ハロルドとモーリーンの老夫婦。ある日、ハロルドのもとに、かつて地元のビール工場でともに働いていた女性、クイーニーからの手紙が届く。彼女はスコットランドとの境界に近い街ベリックにあるホスピスで、まもなく訪れるであろう最期の時を待っていた。返事の手紙をしたため、郵便ポストに投函しに出かけたハロルド。しかしなぜか、彼はそのまま歩き出していた。キングスブリッジからベリックまで、500マイルもの道程を。

「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」は、こうして出発した一人の老人の徒歩旅を描いた映画だ。原作小説の著者、レイチェル・ジョイスが、この映画の脚本も手掛けている。冒頭のあらすじや予告編の動画だけを見ると、友人を想いながら途方もない距離の徒歩旅に挑む主人公が、大勢の人々の感動を呼び起こすようなゴールを迎える作品なのかな……とうっすら思っていたのだが、その予想は良い意味で裏切られた。途中で道連れになった若者たちも犬も、やがては離れていき、ハロルドはたった一人でベリックを目指す。最愛の息子であったデイヴィッドに対する悔恨。かけがえのない友人であったはずのクイーニーに対する悔恨。取り返しのつかない過去に対する苦い思いを抱え、身も心もぼろぼろになりながら、ハロルドはベリックに辿り着く。そこで待っていたのは……。

レイチェル・ジョイスの著作には、この映画の原作になった作品のほかに、クイーニーの側から描いた物語と、モーリーンの側から描いた物語もあるという。二つのアザーストーリーと併せ読むことで、彼ら三人の想いが絡み合った物語は、はじめて完結することになるのだろう。

湯河原原稿執筆合宿、再び


来年の春頃に、新しい本を出すことになったのだが、肝心の原稿の進捗は、あまり捗々しくない。特に五月は、ほかの国内案件がわちゃわちゃと立て込んで、それらにすっかり時間を取られてしまった。

このままではまずいということで、伝家の宝刀(?)、原稿執筆ぼっち合宿を敢行することにした。今回の合宿地は、およそ四年ぶりの湯河原。前回もお世話になった、The Ryokan Tokyo YUGAWARAさんに滞在することにした。この宿には「原稿執筆パック」という宿泊プランがあって、一日三食の食事付き、コーヒーなど飲み放題、温泉にも朝晩入り放題という、僕にはおあつらえ向きの内容なのだ。料金は時期によって変わるが、安いタイミングを選べば、一日あたり一万円程度でも泊まれる。今回は、原稿執筆パック三泊四日のプランで滞在することにした。

部屋は八畳の和室。今の時期の湯河原は、思っていたほど暑くもなく、東京より涼しいくらい。日中は窓を網戸にしていると、涼しい風が入ってきて、遠くからの川のせせらぎと、うぐいすのさえずりが聴こえるだけの、とても静かな環境だった。

似合うかどうかを決めるのは

二十代から三十代にかけての頃、着る服といえば、黒、紺、グレーがほとんどだった気がする。何が自分に似合うかわからなくて、誰が着てもほぼ間違いのない、無難な色の服ばかり選んでいた。

今も、その三色の服の割合はかなり多いけれど、それ以外の色の服も、それなりに着るようになった。同じくらい無難なカーキやオリーブグリーンはもちろん、差し色に使いやすいTシャツでは、黄やオレンジ、赤、紫などもよく着る。そうした色が自分に似合うかどうか、人からどう見られているか、今ではまったく気にしない。気が向いた時にそれを着ると、少し気分が上がるから着ている。それ以上の理由はない。

周囲の人も、ほんの少し見慣れてくれば、その服がその人らしさなのだと、しぜんと感じるようになる。似合うかどうかを決めるのは、自分自身なのだと思う。

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パオロ・コニェッティ『狼の幸せ』読了。著者の出世作となった『帰れない山』が面白かったので、この本も楽しみにしていたのだが、二つの点で期待を裏切られた。一つは、タイトルや内容紹介から受ける印象に比べると、狼が物語に関わってくる割合がかなり物足りなかったこと。確かに、人の数ある生き方の一つのメタファーとして狼が描かれているのはわかるのだが、ほとんどが人間関係にまつわる物語で、狼自体は出てこなくても構わないほどのレベルだったので、ちょっと拍子抜けした。

もう一つは、都会での生活に疲れてモンテ・ローザの麓の村に逃れてきた作家の中年男性が、同じレストランで働くようになった十歳以上年下の女性と恋に落ちる……という展開が、どうにもしんどいなあ、と感じられてしまったこと。作家である主人公は、明らかに著者自身をモデルにして描いているとわかるので、なおさら。私小説の趣の濃い作品だし、実際にそういう経緯で恋仲になった女性がいたのかもしれないが、正直、あいたたた……と感じてしまった。まあ、自分も同じ物書きで中年のおっさんであるがゆえの、同属嫌悪なのかもしれないが。

衰えていく国

スーパーに食材の買い出しに行くと、何もかも値上がりしてるなあ、と感じる。野菜や肉、卵などはわかりやすく高くなっているし、パッケージされた商品も、値上がりしてるか、内容量が減らされてるか、あるいはその両方だったりする。

僕の住んでいる西荻窪は、駅の界隈にたくさんの個人商店が集まっているのだが、閉店したまま次が決まらず、空いたままになってる物件も結構目につく。隣駅の吉祥寺は、住みたい街ランキングでトップ争いの常連だが、そんな街でも空き店舗物件があちこちにある。大手のデパートの中もスカスカで、埋められないスペースを安い衣料雑貨のワゴンセールとかで誤魔化してるところも多い。無人で、カプセルトイの機械を並べただけのところもあったり。

都心の繁華街もそうだ。原宿や渋谷のような一等地でも、かつてはお洒落なアパレルショップだった場所が、うらぶれた空き家になっている。新しいショッピングモールが次々に開業する一方で、既存のテナントビルはスカスカのまま閑古鳥。対照的に元気なのは新大久保界隈とかで、アジア各国の商店や食堂がぎっちぎちにひしめき、どこかが空いてもすぐに埋まるというが、日本人経営の店はあまり見当たらない。

近所で行きつけにしてる老舗のパン屋さんで、おひるによく買って食べていた名物のカレーパンが、ある日、1個420円になっているのを目にした時は、さすがにびっくりした。地元の人々に愛されている、良心的なお店なのだ。そういう店がそこまで値上げをしなければやりくりできないほど、今は何もかもが厳しい状況になっている。

先日、1ドルが160円台になったという経済ニュースで、日米の金利差が原因云々という記事が溢れていたけれど、それ以前に、日本円の価値が根本的に下がってしまっているのだと思う。日本という国そのものが刻々と衰退し、貧しくなっているのだ。取材で海外の国々との間を行き来していると、いろんな場面でそう感じる。日本の社会自体から、力が失われていると。

そう遠くないうちに、海外旅行などは日本人にとって、一部の富裕層に限られた娯楽になってしまうのではないかと思う。自分自身の仕事のやり方も、あらためて、いろいろ考えてみなければならないと感じている。

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石川美子『山と言葉のあいだ』読了。仏文学の研究者でもある著者が、自身がフランスで生活していた時の経験と、デュマやバルザック、スタンダールといった古今の作家たちにまつわるエピソードを絡めて書き綴ったエッセイ集。静謐で清々しい文体で、読んでいて心が落ち着く。とりわけ印象に残ったのは、マダム・ミヨーにまつわるエッセイで、数奇な運命の巡り合わせに滲む著者の思いに、胸を打たれた。

「タイガー 裏切りのスパイ」

サルマン・カーンとカトリーナ・カイフが凄腕スパイ夫妻を演じる「タイガー」シリーズの第三作。第二作は日本では劇場公開されていないのだが(僕はエアインディア機内で観た)、前二作をすっ飛ばして、いきなりこの作品だけ観ても、特に支障はない。前二作に加えて「パターン」を観ているとフフッとくる仕掛けも、もちろん随所にあるが。

元RAWのエージェント、タイガーと、元ISIのエージェント、ゾヤの夫婦は、オーストリアの湖畔の街で息子とともに暮らしていた。アフガニスタン潜入中に拘束されていたRAWのエージェント、ゴービーを救出するため派遣されたタイガーは、ゴービーが息を引き取る寸前に、ゾヤが二重スパイであると告げられる。半信半疑のまま、次の任務でサンクトペテルブルクに向かったタイガーは、思いもよらない窮地に追い詰められることになる……。

今回の敵役は、パキスタン国内で軍と結託して民主派の首相(ちなみに女性)を暗殺してクーデターを起こそうと企てている人物。その策謀を阻止するため、インドの元スパイであるタイガーが仲間たちとともに立ち向かうという筋立ては、ここしばらくナショナリズムに染まった作品の多いインド映画界においても、少し異彩を放っているように感じた。安易にインド中心主義でパキスタンを敵役にするのではなく、かの国にも善き人々はいるのだ、という……。ともすると、公開前からものすごいバッシングを受けかねない最近のインド映画界なので、ぎりぎりのバランスを探った結果のような印象を受けた。

物語の組み立ては、「パターン」に似ている部分もある。あるものを厳重な金庫から奪取するために潜入し、拘束されてから助っ人(笑)と協力して脱出し、最終決戦に臨む……という感じで。このシリーズは、基本的にタイガーとゾヤの強さがチートなので、今作でもそこまでピンチに陥ったりはしなかったのだが、今後、YRFスパイ・ユニバースの制作が進むにつれ、さらなる強敵と渡り合うようになる……のかもしれない。パターン対タイガーとか。そんな気がする(笑)。