ムネ・ツェンポ

去年の秋に買った、亡命チベット人医師ツェワン・イシェ・ペンバによる長編小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』。ダライ・ラマ六世の詩句を表題にしたこの壮大な物語、自分の本の作業に追われてなかなか手に取れなかったのだが、夏頃からじっくり少しずつ読み進めて、一昨日、最後まで読み終えた。フィクションではあるが、ある意味、ノンフィクション以上に当時のチベットのニャロンの人々の生き様を鮮やかに描き出した、凄い小説だった。

この小説の中で、印象深い場面はいくつもあるが、読み終えた後もずっと脳裏に残り続けている場面が、一つある。それは、物語の舞台となるタゴツァンの谷を占領した中国人民解放軍の政治委員タン・ヤンチェンと、村はずれにあるサンガ・チューリン僧院の高僧タルセル・リンポチェとの会話だ。

「新しい中国は、すべての人々が平等の権利を有し、平等を享受できる国になる」と力説するタンに、リンポチェは言う。「それは実に素晴らしい。我々のかつての王、ムネ・ツェンポの思想とまったく同じだ」と。

八世紀末頃に在位した古代チベットのこの王は、国内に蔓延していた貧富の差をなくすために、自身の分も含め、すべての土地と財産を分割して平等に分け与えた。だが何年か経つと、商才のある者は再び財産を増やし、ない者はまた貧困に陥るようになり、社会の格差は元に戻ってしまった。ムネ・ツェンポは二度、三度と土地と財産の分配を行ったが、そのたびに、しばらくすると国内の貧富の差は元に戻ってしまう。最後には、王による分配を止めるため、ムネ・ツェンポは暗殺されたと伝えられている、と、リンポチェはタンに語る。

タンとリンポチェの対話は、この後も平行線を辿ったまま続くのだが、このくだりを読んでいて、これはある意味、現在の中華人民共和国にもあてはまるな、と思わずにいられなかった。かつて、すべての人々に平等をもたらすという理想に燃える人々が建国したはずのこの国には今、世界でも類を見ないほど極端な貧富の差がはびこっている。人権の面でも平等にはほど遠い。チベットや東トルキスタンでの民族浄化は止まず、香港の民主化運動は文字通り叩き潰された。文化大革命の頃の危うい空気が、最近の中国には再び戻ってきているように感じる。

中国は、そしてチベットは、これから、どうなってしまうのだろう。

「イングリッシュ・ミディアム」

2017年に公開されてスマッシュヒットを記録した、イルファーン・カーン主演の映画「ヒンディー・ミディアム」。それとストーリー上はつながりのない続編「イングリッシュ・ミディアム」がインディアンムービーウィーク2021で公開されたので、キネカ大森まで観に行ってきた。

ウダイプルの老舗菓子店一族ガシテラームの一人、チャンパクは、妻を早くに亡くし、娘のターリカーと二人暮らし。英国の大学への留学を夢見るターリカーは、猛勉強の末、見事に留学生枠に選ばれる。しかし、学校の表彰式でチャンパクが起こしたトラブルのせいで、そのチャンスはふいに。娘の夢をどうにかして叶えてやりたいチャンパクは、ロンドンに住んでいるという旧友バブルーを頼って、折り合いの悪い従兄弟のゴーピーとともに、ターリカーを連れて英国に飛ぶが……。

前作のテーマはお受験だったが、今作では海外留学。大勢のインド人の若者にとって憧れではあるが、そのために必要な莫大な費用のことなどを考えると、恐ろしく狭き門でもある。この作品でも、トラブル続出のスラップスティックな展開のそこかしこに、インドと英国、それぞれの社会に対する風刺がピリリと効いている。そんな中でも、常に底流に流れているのは、父と娘の温かなつながり。そのぬくもりをおどけながらもじんわりと表現するイルファーンの演技は、さすがだと思う。

この作品は、持病の悪化で2020年に逝去したイルファーン・カーンの最後の出演作でもある。彼の演技を見届けたい方は、映画館で、ぜひ。

2回目のモデルナワクチン接種

先週の土曜の午後、2回目のモデルナワクチンの接種をしてきた。

接種したその日は、特に明確な違和感もなく、そのまま普通に寝たのだが、夜中の3時頃、ワクチンを打った右腕にひきつるような疼痛を感じて目が覚めた。体温を測ると上がりはじめていたので、相方が用意してくれていたカロナール(解熱剤)を服用。右腕の痛みは治まったが、目はすっかり醒めてしまって、よく眠れない状態が続いた。

明け方に2時間ほどうとうとして起きると、熱がぐんと上がって、38℃台に。こんなにわかりやすく熱が出たのはひさしぶりすぎて、いつ以来だったかも思い出せない。不幸中の幸いは、頭痛や悪寒、吐き気などはまったくなくて、ただただ体温が上がって身体がぽかぽか火照ってる状態だったこと。だから日中は、普通にパソコンやスマホを見ながらのんびり過ごすことができた。

夕方になって急に熱がすとんと下がって、ほぼ平熱に。晩飯も普通に食べられた。寝る直前にまた少し微熱が出たが、夜は前後不覚にぐっすり眠れて、今朝はすっかり元通り。ひさしぶりに自分でいれて飲むコーヒーがうまい。

ともあれ、これで、うっかりコロナを罹患しても重症化するリスクはなくなった。やれやれである。

「マーリ」

インド映画の特集上映「インディアンムービーウィーク2021 パート2」を開催中のキネカ大森へ、昨日に続いて今日も行ってきた。今日観たのは、ダヌシュ主演の「マーリ」。

チェンナイで下町を仕切る札付きのチンピラ、マーリ。その荒っぽい素行のせいで町の人々からは恐れ嫌われ、新任の警部アルジュンにも目の敵にされていたが、地元で盛んな鳩レース用の鳩の飼育には熱心で、一羽一羽の鳩に惜しみない愛情を注いでいた。そんな中、この界隈でブティックを新しくオープンした女性、シェリーとの出会いがきっかけで、マーリを取り巻く事態はにわかに慌ただしくなっていく……。

序盤は割とのんびりした展開で、あーなるほどーと思いながら観ていたら、インターミッションの手前あたりで、オセロで大量の石が一気にひっくりかえるような想定外の展開に。南インドのアクションコメディ特有のベタなお約束は守りつつも、最後まで飽きさせない展開で、よくできた映画だなあと感心した。

丸グラサンと奇天烈なヒゲに、チンピラのステレオタイプみたいな衣装でマーリを演じたダヌシュは、悪党を演るのが本当に楽しそうで、気持ちいいくらいに振り切れていた。本国では2019年に続編も公開されているそうなので、日本でも、ぜひ。

「マスター 先生が来る!」

今のインド・タミル映画界の至宝と呼ばれている二人の俳優、タラパティ(大将)ヴィジャイと、ヴィジャイ・セードゥパティ。それぞれ主演で数々の大ヒット作を世に送り出してきた二人が、夢の競演、しかも主役と敵役として真正面から激突する。そのとんでもない映画「マスター 先生が来る!」が、ついに日本でも日本語字幕つきで上映されることになった。何というかもう、この時点ですでに感無量である。

大学で心理学を教えるJDは、多くの学生に慕われる存在だったが、辛い過去の経験からアルコールに依存する日々を送っていた。大学内での学生会長選挙をめぐるいざこざで、3カ月の休職と、ナーガルコーイルという街の少年院での勤務を命じられたJD。しかし、その少年院は、街で急速に勢力を拡大するギャング、バワーニの悪事の温床となっていた。バワーニの非道な仕打ちから少年たちを守るため、JDは単身バワーニの一味に立ち向かおうとするが……。

丸々3時間にも及ぶ大作だが、物語自体はすこぶるシンプル。JDとバワーニの二転三転の知恵比べのような展開があるのかなと予想していたのだが、最初から思いのほか、駆け引きなしのノープランでの力勝負が展開されるので、二人の過去の作品と比べると、ちょっと意外だった。バワーニの生い立ちは冒頭である程度描かれていたが、JDの生い立ちは第三者の台詞でかいつまんで説明されただけだったので、そのあたりももうちょっと見てみたかったかなと(二人に過去の意外な因縁があったりするとなお面白かったかも)。JDとバワーニ、それぞれの人となりをもっと知ってみたかった気もするし、二人の直接の絡みももっと見てみたかったとも思う。

ヒロイン陣の存在がほぼ空気とか、少年院行きの真相それでいいのかとか、例によってツッコミどころはたくさんあるのだが、まあ……細けえことはどうでもいいんだよ(笑)。タラパティとVSPがボッコボコに殴り合う最後の対決は、単純明快に、ただただ、めちゃくちゃ熱い。あれだけでも観る価値は十二分にあるし、何ならもう一回観に行ってもいいと思ってるくらいだ。二人とも、いいぞもっとやれ。