「インターステラー」

2014年に公開されたクリストファー・ノーラン監督のSF映画「インターステラー」。僕はこれまで未見だったのだが、公開から10周年を記念して、期間限定でIMAX再上映されるというので、観に行ってきた。

考えてみると、IMAXで映画を観ること自体、何だかんだで初めてだったのだが、巨大なスクリーンに投影される映像の鮮明さと奥行きの深さ、全身にずしんと響く音響の臨場感に、圧倒された。惑星の影を飛ぶ宇宙船、ブラックホールの歪な姿、海の惑星、氷の惑星……。視覚と聴覚が完全にジャックされてしまったかのような、ものすごい没入感だった。

そうした没入感を味わえたのも、「インターステラー」という作品なればこそ、の部分も大きかったのだろう。監督が徹底的にこだわり尽くしたという、細部に至るまで徹底されたリアリティ。だからこそ、観客は映像に、音響に、物語に惹き込まれ、彼らとともに宇宙を旅することができる。

観終わった後、頭が完全にぼーっとしてしまって、元に戻るまで何時間もかかってしまった。あれはたぶん、「宇宙酔い」だったのだと思う。

満ち足りた午後


およそ一年ぶりくらいに、相方と二人で、深大寺に蕎麦を食べに行った。

三鷹からバスに乗り、終点で降りて、すっかり覚えた道を歩いて、ここで行きつけのお店、玉乃屋さんへ。店の前には結構な長さの行列ができていたけれど、席数が多い上に回転も早いので、そんなに待たされることもなく、敷地内の屋根なし席の端っこに、首尾よくすべり込むことができた。空は清々しい快晴で、見上げると、真っ赤な紅葉の梢が広がっている。

深大寺ビールと天ぷらの盛り合わせ、相方はにしん蕎麦、僕は鴨田舎を大盛りで注文。この日あたりから新蕎麦に切り替わったそうで、口に含んだ太めの十割蕎麦は、驚くほど爽やかでみずみずしい味だった。去年も同じような写真を載せたのだが、あまりにも美味かったので、また載せてしまおう。

何というか……言葉にするのが難しいくらい、満ち足りた午後だった。人によっては、どうということのない時間なのかもしれない。けれど、そういう何気ない時間を、近しい人と分かち合いながら過ごせることは、とても恵まれているし、稀有なことなのだとも思う。そうしたことが当たり前ではない土地は、世界中にたくさんあって、今も刻々と広がっている。

また、蕎麦を食べに来よう。

陣馬山から高尾山へ


気分転換と体力維持のため、ひさしぶりに日帰り山歩き。コースはおなじみの、陣馬山から高尾山までの縦走。早朝から電車とバスを乗り継ぎ、陣馬高原下から登山口に入る。ほかに人の気配のない、森の中を一人で歩くのは愉しい。自然の中に無心で没入できる感じが、心地いい。

「カッティ 刃物と水道管」

タミル映画界のトップスターであるヴィジャイとA.R.ムルガダース監督による作品は、選挙をテーマにした「サルカール 1票の革命」を以前観て、楽しむと同時にいたく感銘を受けた。それ以前にこのコンビによって作られた映画「カッティ 刃物と水道管」が、日本語字幕付きで劇場公開された。

コルカタの刑務所から脱獄してチェンナイに逃げた詐欺師カヴィルは、偶然目撃した銃撃事件の被害者ジーヴァが自分と瓜二つなのを利用し、ジーヴァを自分に見せかけて警察に捕まえさせ、自分自身はジーヴァになりすまして逃げおおせようと画策する。しかし、ジーヴァの故郷の村で起きている事件のあらましを知るにつれ、カヴィルは巨悪と対峙することになる……。

面白かったし、いろいろ考えさせられた。A.R.ムルガダース監督は、娯楽映画であっても社会問題を巧みにテーマに織り込むことに長けている。「カッティ」は「サルカール」よりも少しスケールが小さいのだが(それでも、チェンナイ全域の水供給を止めてしまうあたり、十分すぎるくらいでかい話だが)、その分、大企業によるインドの農村での乱開発と、話題作りしか考えていないマスメディアの弱者に対する冷淡さというテーマに、物語をシンプルに絞り込めていた。カヴィル自身も、誰と戦っても無傷のスーパーヒーローではなく、あるトリックを利用することで無類の強さを発揮するという仕掛けも(それ自体が伏線でもある)、うまいなあと感心させられた。

最近は、ヴィジャイの出演作品を日本語字幕付きで観られる機会が増えてきていて、個人的にもとても嬉しい。彼自身は、今後政界に進出する計画があるそうで、俳優業から引退するという話も聞いているが……どうなるのかな。

まっしろな砂漠の果てに

今年の春頃から書き続けていた、新しい本の草稿を、昨日、最後まで書き終えることができた。

一冊の本を書くことは、誰も歩いたことのない、まっしろな砂漠の只中を、一人で歩き続けていくのに似ている気がする。そこには道も、足跡もなく、どこをどう進んでいくのかは、すべて自分で決めなければならない。書きはじめる前に、計画(プロット)はあらかじめ入念に考えてはいるけれど、いざ始めてみると、計画通りに進まないこともよくある。あまりにも長い時間、その本のことをずっと考え続けているので、しまいには、それが本当に面白いのかどうか、自分ではわからなくなってしまう。

前に書いてきた本では、一番最後の数行にどんな文章を書くか、あらかじめ決めていたことがほとんどだった。でも今回の本では、最後の章までの大まかな構成を考えておいただけで、どんな文章で締めるのかは、あえて決めないまま、書き続けていた。まっしろな砂漠を歩きながら、どこで歩き終えるのかを、自分の感覚で見定めたかったのだと思う。

その最後の文章は、思いがけないほど、すんなりと現れた。自分の中から捻り出して書いたというより、しぜんと目の前に舞い降りてきたような文章になった。それでもまだ、この本がほかの誰かにとって面白いものになっているかどうか、自信はまったく持てないのだけれど。

この後は、いったん冷却期間を置いて、じっくり読み返してから、推敲とリライトに着手。年明けからは、本格的な編集作業が始まる。頑張らねば。やらねば。