日本の山、ラダックの山

この間から、奥多摩や丹沢を歩いてみて、やはり日本の山は素晴らしいなあ、と再認識している。

うっすらと霞がかかる山並みの風景はとても美しいし、緑は豊かで、覚えきれないほど多種多様な草木がひしめいているし。鳥はさえずり、猿は悠々と行進し(笑)、生命の気配にあふれている。その一方で、登山道は細かいところまで丁寧に整備されていて、老若男女誰でも歩けるように、至れり尽くせり。当たり前かもしれないけれど、日本らしいのだ、日本の山は。

でも、そういう日本の山のよさを感じてみると、あらためて、ラダックの山の中を歩いてきた自分の体験が、いかにかけがえのないものだったかということもわかる。とてつもなく苛烈で、だからこそ美しい自然の中で、ひっそりと息づく村や、悠然と暮らす遊牧の民を訪ね歩いた日々。考えてみれば、何という贅沢な時間だったことか。

日本の山で穏やかな体験をした後だからこそ、戻りたくなる。あの場所に。

金環食

取材もなく、急ぎの仕事も特になく、こんな日は自堕落に寝坊したいところだが、世間がやたら金環食と騒いでいるので、目覚ましをセットして、早起きしてみた。

曇りかな‥‥と思ったら、一応、うっすらと日は射している。肉眼で直接見つめすぎると網膜に穴が空くかもしれないので、シャープペンの先で紙に穴を空け、ピンホールカメラの原理で影を観察。ほほう、確かに欠けている。

しばらく経つと、空がふっと薄暗くなった。最大食に達したらしい。日食というと、もっと辺りが夜のように真っ暗になるというイメージだったが、金環食は思ってたよりも明るいのだな。

その薄暗さもほどなく消え、周囲は再び朝の光を取り戻した。僕はすっかり満足して、寝床に戻って、二度寝した。

安楽椅子

昨日の夕方、出版社から「ラダック ザンスカール トラベルガイド」の見本誌が二冊届いた。梱包を開けて本を手に取り、カバーや帯、折込地図の具合を確かめ、ぱらぱらとめくってみる。この一年半、必死になって作り続けてきた本。よかった。ちゃんと一冊の本になっている。

嬉しいとか、報われたとか、そういうわかりやすい感情は、不思議と湧いてこなかった。僕はただ、ぼんやりと、実家の和室の縁側にあった安楽椅子のことを考えていた。

去年の夏、イタリア旅行中に急死した父の葬儀のため、僕はラダックでの取材を中断して、岡山にある実家に戻っていた。葬儀の後、父の遺影と遺骨は、家の西の端にある和室に置くことになった。その和室は家の中でも一番静かな場所で、縁側の外は庭に面していて、とても涼しかった。

縁側に、一脚の古ぼけた安楽椅子がある。ふと目をやると、その安楽椅子の肘掛けの上に、本が一冊、置いてあった。それは少し前に出たばかりの、僕とライターの友人が共同で書いた電子書籍についてのハウツー本だった。たぶん、父がここで読んでいたのだろう。電子書籍なんて、およそ一番縁遠いはずの人間なのに。

僕が新しい本を出すたびに、父は、安楽椅子にもたれながら、僕の本を読んでくれていたのだと思う。自分の本がそんな風にして父に読まれていたことを、僕はそれまで想像すらしていなかった。でも、もうこの安楽椅子で、父が僕の本を読むことはない。そう考えると、胸がぐさっと抉られるような思いがした。

あれから九カ月。僕の新しい本を、父は読んでくれるだろうか。あの空の向こうの安楽椅子で。

丹沢表尾根縦走

半年間の本づくりで、なまりになまった身体を叩き直すべく、丹沢を登ってくることにした。丹沢は学生の頃に何度か登った記憶があるが、それ以来とんとご無沙汰だったので‥‥二十年ぶり?(汗) はてさて、どれだけ体力が落ちてるのやら‥‥。

今回選んだのは、丹沢表尾根縦走コース。秦野からバスで行けるヤビツ峠から登りはじめ、二ノ塔、三ノ塔、烏尾山と尾根を伝って、塔ノ岳を目指す。下りは大倉尾根を一気に下って、大倉バス停から渋沢に戻るという計画だ。小さめのリュックに合計1リットルの水と、簡単な食糧、ウインドブレーカー、タオル、財布とiPhone、それからGR DIGITAL IVを詰め込んだだけの軽装備で行くことにした。

早朝の秦野駅に降り立ってみると、ものすごい数の登山客がひしめいていて、びっくり。ヤビツ峠行きのバスに乗れるのか、ちょっと焦ったが、幸い臨時バスがばんばん来てくれて、事なきを得た。

ヤビツ峠からは、一時間少々、蒸し暑い木立の間の道を登る。ふっと周囲が開け、ふりかえると、快晴の空の下に広がる緑豊かな表丹沢の山々が見えた。

お金をもらうということ

今日ネット上では、studygiftという新サービスの話題でもちきりだった。学費の工面に困っていたり、何かの目標に挑戦したい学生を支援するサポーターを集めるためのオンラインサービス。サービスのコンセプト自体はまったく何の問題もなく、むしろ大いにやってくれればいいと思うのだが、そのローンチの仕方が、いささかまずかった。

最初に学費の支援を求めるという形で広告キャラクターのような立場でフィーチャーされたのが、しばらく前からネット上で人気の女子大生。InstagramやGoogle+ですごい数のフォロワーを持つ女の子で、起用(?)されたのもさもありなんという感じだった。ところが、彼女が学費の支援を求める理由は、「成績が下がってしまって奨学金を打ち切られてしまった」という正直すぎるものだったのがよくなかった。有名人がこういう弱みを見せると、世間は容赦ない。案の定、この件はネット上で格好の餌食にされ、炎上どころか血祭りに近い状態になった。

この件は、その女子大生が悪いというより、サービス提供元のスタッフの見込みが甘かったことに尽きると思う。広告キャラクターと呼ぶと否定されるのだろうけど、あれだけ彼女をフィーチャーして最前線に押し出しているのだから、こんな惨事にならないための準備(嘘をつけとは言わないが、オブラートにくるむくらいの大人の配慮)はすべきだったろう。それでも、人々に「彼女を助けたい」と思わせるほどの真摯さが伝わったかどうかはわからないが。

件の彼女の場合、元々有名なだけあって、それなりの金額が集まっているそうだ。でも、その代わりに、彼女はどれだけのものを失っただろうか。

人にお願いごとをしてお金をもらうということは、とても大変で、デリケートなことだ。クラウド・ファンディングであれ何であれ、システム的にうまく立ち回りさえすればお金が集まるなんてことは、ありえない。人の心を動かすには何よりも、真摯な理由がいるのだと思う。