「絶景」に思う

しばらく前から、「絶景」や「秘境」といったキーワードを謳い文句にした書籍やテレビ番組が人気を集めている。書籍の場合、その一冊のためだけにカメラマンを世界中に派遣したりすることは予算的にまず無理だから、ストックフォトエージェンシーに借りた写真で作っている本がほとんどだ。中には、Flickrなどから写真を持ってきてる、使用許諾の面などでかなり強引でアヤシイ作り方をしてる本もあるようだが。

旅の目的は人それぞれだし、ある「絶景」を見たいがために旅に出ても、それはまったく構わないと思う。ただ、自分の場合はどうかというと、「絶景」として見せられたイメージが旅に出る動機に繋がったことは、実は一度もない。最近人気のラダックのパンゴン・ツォでさえ、僕は最初に現地に行くまで、カラー写真すら見たことがなかった。旅の魅力は風景だけでなく、そこで生きる人々とその暮らしぶりなど、いろんな物事との出会いをまるっと含めた体験の中にあると思うし。

最近は、「絶景」と呼ばれる場所の地名をグーグルで画像検索すれば、そこの写真がわんさか出てくるから、便利な反面、ちょっと興を削がれる面もある。もちろん、自分自身の目で見届けるのが一番いい体験になるのは当然だけど、できれば事前にあまり予習しすぎないようにして(笑)、その「絶景」だけでなく、そこまでの道程で出会った人たちとのやりとりまで含めて、ゆったりと旅を楽しむのがいいんじゃないかなと思う。超効率的な弾丸ツアーで「絶景」だけがつがつ見に行っても、何だか味気ない旅になってしまうだろうから。

‥‥とまあ、自分で旅行記やらガイドブックやらを散々出しといて、何を言ってるんだという気もするけど(苦笑)。

つながりっぱなしの旅

学生時代に生まれて初めて海外で一人旅をした頃、旅先で出会った人たちと交換するのは、住所と電話番号だった。旅の続きで訪れた街で買った絵ハガキを互いに送り合ったりして、帰国後、郵便受けにそんなハガキが届いていると、何だかすごく嬉しかったのを憶えている。

それから十年もしないうちに、世界中の観光地にはインターネットが使えるパソコンを置くサイバーカフェが林立するようになり、旅人たちが交換するのは、Hotmailのメールアドレスに変わった。それはやがてGmailになり、それからTwitterやFacebookやLINEのアカウントになった。

そして最近、観光地ではサイバーカフェがどんどん減り、代わりにWi-Fiフリーのホテルやレストラン、カフェが急増している。旅人たちはみなスマートフォンやタブレットを持ち歩き、ホテルや交通機関の予約、地図や現地情報の確認など、旅に必要なことの大半をそれらでまかなう。旅先で撮った写真はリアルタイムでブログやTwitterやFacebookにアップされ、日本にいる友達はそれにすぐ反応してコメントを返す。いつのまにか旅は、ずっと誰かとつながりっぱなしなのが、当たり前になった。

つながりっぱなしの旅。それはそれで、楽しい面もたくさんあると思う。でも、住所と電話番号を交換するようなオールド・スタイルの旅をしていた身としては、そんなに四六時中つながりっぱなしだと、ちょっとつまらなくない?とも感じる。知らない国の知らない街で、右も左もわからず途方に暮れて、その日の寝床と食事にありつくためにうろうろする。あの孤独と不安に苛まれるような感覚があるからこそ、一人旅は俄然面白くなるのではないだろうか。

旅先でスマホやタブレットを活用するのは、大いに結構。でも、せっかく旅に出るのなら、周囲と何のつながりのない世界に一人身を置くことの愉しみも、味わってみてほしいなと思う。

去りゆく夏

昼、散髪をしてもらいに、近所の理髪店へ。頭がすっきり軽く、いくぶん涼しくなった(笑)。まほろば珈琲店でコーヒー豆を補充し、吉祥寺に移動して、こまごました買い物をして歩く。

今日も、日射しが照りつけているところでは肌がじりじりと焦げるようだったし、ビルの谷間にはクーラーの廃熱がむわあっとたちこめているような、暑い一日だった。とはいえ、空を見上げると、光の加減も、雲の形も、真夏といった気配ではもはやない。肌をなでる風も、どこかさらっとしている。もうすぐ秋なんだな。

‥‥まあ、九月下旬からは、しばしの間、タイで真夏に逆戻りなんだけど(苦笑)。

自然と人のあいだ

約一年ぶりに、このブログのヘッダの写真を替えてみた。ツォ・モリリの湖畔で見かけた、チベット仏教の真言が刻まれたマニ石の写真。

しばらく前から、僕が何となく追い求めているおぼろげなテーマに、「自然と人のあいだ」というものがある。人は、自然とのつながりなしには生きていけない。自然の力はあまりにも強大で、時に無慈悲に、あっさりと人の命を奪い去る。遠い昔から人は、その強大な自然を目の前にして、何を思っていたのか。ある時は祈りを捧げ、ある時は抗おうとし、ある時は生きようともがき‥‥。

自然と人のあいだにあるものを追いかけていくことで、自然に対する人の本来のありようについて、自分なりに考えてみたい。ラダックの山の中を歩いているうちに見えてきたこのテーマ、次はどの場所で取り組んでいくべきか。来年以降の、自分にとっての課題。

「風立ちぬ」

「風立ちぬ」

宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、観る人によって極端に評価が分かれる作品だと思う。男性と女性とでは受け止め方がまるで違うだろうし、夢見心地のファンタジーや血湧き肉踊るカタルシスを求める人には肩すかしだろう。「沈頭鋲」とか言われても、子供にはチンプンカンプンだろうし。今までのジブリ作品のように、100人中100人が「面白い」と思う映画ではない。

でも僕は、それでよかったんじゃないかなと思う。これは、宮崎監督自身も未だに答えを見出せない衝動に突き動かされて作られた作品だ。個人的な動機で生まれた作品にしか宿らない力のようなものは、確かにある。その力は、すべての人には届かないかもしれないが、届く人には、心の深いところを揺さぶることができる。

「美しい飛行機を作りたい」という幼い頃からの夢を抱いて成長した青年は、自分の設計する飛行機が人殺しのために使われると知りつつも、その矛盾を抱えたまま仕事に没頭する。最愛の妻が病の床に伏しても、彼は仕事から離れることができない。彼が設計した美しい飛行機、九試単戦が軽やかに空を舞った時、彼の脳裏をよぎったのは‥‥。

わかりやすい答えや救いは、何も示されない。青年は苦い思いを噛みしめながら、飛行機の墓場のような荒野に佇む。それでも彼は、生きていかなければならない。どれだけズタズタに引き裂かれたとしても。

それはたぶん、僕たちも同じだ。