アメリカの物価

一昨日の午後、アラスカから東京に戻ってきた。七月上旬から、インド、アラスカと断続的に続いていた旅も、ようやく一段落。しばらくは自宅で落ち着けそうだ。

アラスカでの滞在は、とにかく今のアメリカのえぐすぎる物価高に、辟易とさせられた日々だった。何をするにも買うにも、単純に日本の倍くらいかかるし、それなりのクオリティのものを選ぶとさらに高くつく。食費を少しでも節約するために、宿の近所にあったマクドナルドをほぼ毎日利用せざるを得なかったのだが、普通のクオーターパウンダーとポテトとコーラのセットが、2000円にもなる。何かを買うためにカードを取り出して決済するたび、ぼったくり店でむしられてるような気分になった。

でも、そうしたギャップは、アメリカの物価が値上がりしてるだけでなく、日本円の力が弱っているのも少なからず影響している。世界の他の国々と比べても、日本の国力は刻々と衰退していると感じる。居座り続ける政府与党の為政者たちを総取っ替えしなければ、この凋落は止まらないだろう。

青息吐息で日本に戻ってきて、スーパーやコンビニに並ぶ商品の値段を見ると、めちゃめちゃ安いなあ……と感じてしまうようになった。日本を訪れる外国人旅行者の金銭感覚が、ほんの少し、理解できたような気がする(笑)。

「ルックバック」

「ルックバック」は、藤本タツキ先生の原作をWebでの公開直後に全編読んでいたのだけれど、映画もやっぱり気になってしまって、昨日、観に行ってきた。

漫画だけでなく、手を動かしてものをつくり、表現しようとする人すべての心に、深く深く、突き刺さる物語。わかりすぎるほどわかってしまう、あの気持ち。憧憬、興奮、達成、挫折、焦燥、孤独、無力……。どれだけ描き続けたところで、何も変わらないし、誰も救えない。「じゃあ、藤野ちゃんは、なんで描いてるの?」。答えは語られないまま、机に伏せて漫画を描き続ける藤野の背中を映して、物語は終わる。

一人、ただ、つくり続けること。それは、呪いでもあり、祈りでもある。ただ一つ言えるとすれば、つくり続ける道をあきらめて降りてしまった者の手には、何一つ残らない、ということだけだ。それは、僕自身の今の仕事でも、言えることだと思う。

つかのまの帰国

日曜の昼、インドから日本に戻ってきた。デリー空港での乗り継ぎ待ちが10時間以上とかなり長く、さすがに疲れが出て、日曜と月曜はずっと眠いままだった。

今年の夏に計画していたウッタラカンド方面での取材は、直前に発生した豪雨に伴う大規模な土砂崩れで、通る予定だった道路がめちゃくちゃに寸断され、断念せざるを得なくなってしまった。時期的にある程度のリスクは覚悟していたとはいえ、色々準備していたので無念ではあったが、もしタイミングが少しずれて、現地入りした後に土砂崩れが発生していたら、完全に山奥に取り残されてしまっていたかもしれない。実際にスタックしてしまった数千人の巡礼者たちのように。そう考えると、ある意味、ぎりぎりのところでツイていたのだと思う。

山間部での撮影取材ができなくなった分の時間は、リシケシュのホテルに籠って、連載エッセイの原稿の執筆に充てた。おかげで、来年2月掲載分までのストックができた(苦笑)。これで今年の秋以降は、来春に出す書き下ろしの新刊の執筆作業に全振りできる。まだ4割くらいしか書けてないので、本気で集中せねば……。

一方、旅の後半、ラダックでのツアーガイドの仕事は、天候にも恵まれ、参加者の方々のご協力もあり、とても良い形で終えることができた。次回以降もまた、より良い内容でツアーをご提案していけたらと思っている。参加者の皆様、関係者の皆様、有難うございました。

来週金曜日からは、10日間ほど、アラスカに行く。南東アラスカのケチカンから、水上飛行機で飛んだ先にある丸太小屋で、数日間を過ごす。なので、今回の帰国は、ほんのつかのま。ゆっくり身体を休めつつ、次の取材の準備も抜かりなく進めて、万全の体制で臨もうと思う。

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紀蔚然『台北プライベートアイ』読了。ハードボイルド推理小説の形を取ってはいるが、劇作家でもある著者の経験が物語の組み立てにうまく生かされている。台湾社会に対する深い考察も著者ならでは。最終盤に明かされる犯人の心理や動機が突拍子もない次元に行きすぎているようにも感じたが、総じて面白く読めた。

「サラール」

今週もまた、インド映画を観に行ってしまった。今日観ておかないと、来月帰国した頃には上映終了している可能性が高かったので。観たのは「サラール」。主演はプラバース、脚本と監督は「K.G.F」シリーズのプラシャーント・ニール。

この二人の組み合わせということから想像できるように、主な舞台となる要塞都市カンサールはK.G.Fの設定とよく似ているし、主人公デーヴァの剛腕無双ぶりやその出自はバーフバリを思い起こさせる。意図的にそうしているのだろう。物語自体は今作がパート1ということで、続編から完結するまで(何部作になるんだろう?)見通して、伏線の回収まで見てみないと、何ともレビューしようのない部分も多い。

ただ、一つ思ったのは……「バーフバリ」や「K.G.F」でそれぞれの主人公が悪党をやっつける時に感じたある種の爽快感が、この「サラール」ではどこか違っていたこと。デーヴァはめちゃくちゃ強いのだが、少なくとも今作ではあまりにも強すぎてほぼ誰も相手にならなくて、ただただ一方的に殴りまくり、殺しまくり、返り血で血みどろになっている。アマレンドラ・バーフバリのように皆に慕われる人格者というわけでも(少なくとも現時点では)なく、親友ヴァラダへの仁義には篤いが、何をどう考えているのかはっきりわからない。「K.G.F」シリーズの主人公ロッキーのように自覚的にバイオレンスに振り切れているピカレスク・ヒーローというわけでもない。そういったもろもろが、個人的にアクションシーンで素直な爽快感を感じきれなかった要因かもしれない。

続編が公開されたら観に行くつもりではいるけれど、どうなるのかな、この物語は……。

革のブックカバー

書店で本を買う時、紙のカバーをかけてもらうことが多い。僕の場合、本は、電車での移動中や、喫茶店とかでの待ち時間に読むことが多いので、気兼ねなく持ち歩けるように、という理由で。特に単行本は自重もあるし、大きさもまちまちなので、店頭でカバーをかけてもらえると安心感がある。

ただその一方で、資源の節約という面ではどうなのかなとも正直思うので、書店でかけてもらったカバーでそれほど傷んでいないものは、家にストックしておいて、新しく読む本で再利用したりもしている。

文庫本に関しては、最近ふと思い立って、革のブックカバーを使ってみることにした。選んだのは、エムピウのブックカバー。革が柔らかくしなやかで、手触りもよく、使っていくうちにいい感じにエイジングされていきそうで、すでにとても気に入っている。自分の場合、財布と名刺入れとキーホルダーはエムピウ、PCスリーブとiPhoneスリーブとペンケースは国立商店と、頻繁に使う小物を革製品で揃えるのが好きなので、新たな仲間を加えることができた。

それでもまあ、ハヤカワ文庫のように他より少し大きなサイズの文庫には使えないので、紙のカバーには今後もある程度はお世話になっていくだろう。そう考えると、どんな本でもフレキシブルに対応して保護できてしまう日本の書店の紙のブックカバーというのは、偉大な文化だなあと思う。

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ドニー・アイカー『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』読了。1959年にソ連のウラル山脈で起きた謎の遭難事故の真相を追ったノンフィクション。よく調べて書かれた労作だと思うし、比較的可能性が高いと思われる遭難の原因も終盤に提示されている……のだが、読後感は正直、あまりよくなかった。たぶんそれは、ディアトロフ・フリークとでも呼べそうな著者の熱心な探求ぶり、書きっぷりに、「やましさ」や「うしろめたさ」のような思いが感じ取れなかったからだろう。ノンフィクションの物書きを生業とする者は、誰かの生死など繊細でネガティブな題材に取り組む時、自分がその題材をネタにしてしまうことに対する「やましさ」「うしろめたさ」を常に自覚しておくべきだと僕は思う(僕自身の仕事においてもそうだ)。その点はちょっと残念だった。