「デチェン・ラモの言葉」

金子書房のnoteに、「デチェン・ラモの言葉」というエッセイを新しく寄稿しました。同社のnoteで展開されている「心機一転・こころの整理」という特集のテーマで依頼を受けて、執筆したものです。旅先で一文なしになった時の話(苦笑)とかをまくらにしつつ、本当にどうしようもなくきつい時期に支えられた言葉について書いています。

よかったら、読んでみていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

あと何度、桜を

数日前からの雨は、満開になったばかりの桜の花を、早々と散らせてしまったようだ。今日、近所の小さな公園を通りがかった時も、桜の大木の下に、薄紅色の絨毯ができていた。マンションの隣の角地にある桜は、もうすっかり葉桜だ。

今になってみると、先週の火曜と水曜のあたりが今年の花見には最善だったようで、うちも、火曜日の春分の日に花見に行っておいてよかったと思っている。初めて目黒川の桜並木を見に行ったのだが、意外とのんびりと川沿いを散策できて、八分咲きくらいの桜を堪能することができた。

僕ももう、ええ歳こいたおっさんなので、毎年桜を見るたびに、あと何度、こうして桜が咲くのを眺めることができるだろうか、と思ってしまう。そこそこ普通に生きて、あと20回くらいか。めいっぱい粘って、あと30回? 逆にもっと少なくなる可能性も、もちろんある。いずれにせよ、残された機会は、そんなに多くはない。

桜の花に感じるセンチメンタルな気持には、そういう残された時間についての気持も、かなりの割合で含まれているのだと思う。

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今枝由郎・海老原志穂訳『ダライ・ラマ六世恋愛詩集』読了。ダライ・ラマ六世の詩というと、「白い鶴よ、翼を貸しておくれ……」の詩以外はあまりよく知らなかったのだが、この本に収録された100篇の詩を通読してみると、何というか……ほんとにどうしようもないけれど、愛し愛されずにはいられなかった、魅力的な方だったのだな、と。チベット仏教の最高指導者に選ばれながら、自ら僧位を返上して還俗し、女性を愛し、放蕩三昧の日々を過ごし、若くしてこの世を去った、歴代の中でもっとも愛されたダライ・ラマの一人。我々にもわかりやすく、小気味よく読めるように配慮された日本語訳も労作だし、海老原先生によるチベット詩の詳細な解説も興味深かった。そして蔵西先生の装画が、超美麗……。

違いを生むもの

同じ銘柄のビールを置いているのに、「あれうまそうだなあ、おいしいなあ」と感じる飲み屋もあれば、「別に飲みたいとも思わないなあ、飲んでみたけど、こんなもんか」と感じてしまう飲み屋もある。同じ本を置いているのに、「これよさそうだなあ、買おうかな」と感じる本屋もあれば、「何かピンとこないなあ、買わなくてもいいか」と感じてしまう本屋もある。

同じ場所で同じ風景や人を撮っているのに、「いい写真だなあ、ぐっとくるなあ」と感じる写真もあれば、「こう撮りゃいいんだろと狙ってる感あるなあ」と感じてしまう写真もある。同じ相手に取材して同じテーマの話を書いているのに、「面白い話だなあ、読み返したいな」と感じる文章もあれば、「書いてる人、自分に酔ってるだけなんじゃないかな」と感じてしまう文章もある。

お店にしろ、写真とか文章とか、ほかのさまざまなことにしろ、素材にあたる部分が同じでも、届け手によって明らかな違いが生じることは、よくある。その違いは、それぞれの届け手の技量の差によるものだけではない気がする。丁寧さとか、根気強さとか、まっすぐな気持とか……そういうまごころのようなものも、確かに作用している、と僕は思う。

丁寧で一生懸命でも、実力が伴っていなければクオリティに問題が出るし、テクニックや経験は十分にあっても、誠実さが伴っていなければ信頼関係は生まれない。技量とまごころは表裏一体で、それぞれを磨き上げ続けてこそ、誰かに喜んでもらえるものを届けられるようになるのかもしれない。

ふと思ったことを、つらつらと書き連ねてみた。

ゴールポストが後ずさり

先週あたりから、新しい本の原稿の執筆を再開。日々黙々と書き続けている。

去年の晩秋から書きはじめたこの本の原稿、途中タイ取材とかで中断期間はあったのだが、これまでにどのくらい書いてきたのか計算してみると、80ページだった。予定している総ページ数の、だいたい三分の一くらい。たぶん。おそらく。

言葉尻があやふやなのは、最終的に全体で何ページくらいの本になるか、まだはっきりしていないからだ。少しずつ書き進めて様子を見ながら、台割もその都度調整しているので、一つの章だけでもページ数がにゅるっと増えてしまったりしている。もちろん予算の都合もあるので、野放図にページを増やしまくるわけにもいかないのだが、内容的に妥協はできないし。嗚呼。

総ページ数という名のゴールポストが、今日もじわじわと後ずさりしていく。

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赤染晶子『じゃむパンの日』読了。42歳の若さで逝去された芥川賞受賞作家の方が遺したエッセイ集。短いセンテンスでぽんぽんと切れ味よく綴られた文体と、ささやかなものごとに対する視点の意外さがくせになる面白さ。でも、ふと気づくと、どことなく哀しい気配もうっすら漂っていて。多くの人に読み継がれてほしいな、と思った。

三年ぶりのライブ

昨日の夕方は、三鷹のデイリーズで開催された、アン・サリーさんのライブを聴きに行った。2020年1月に同じ会場で開催されたアン・サリーさんのライブに参加して以来、三年ぶり。会場はぴっちり満員で、百人以上は入っていたと思う。

ギターの羊毛さん、トランペットの飯田玄彦さん、そしてアンさんの三人による二時間ほどの演奏は、本当に素晴らしくて、時に我を忘れるほど引き込まれた。ゆらめくように繊細なリズムとメロディと、アンさんがあと三人くらいいるのではと錯覚しそうほど多彩なハーモニーを感じさせるボーカル。アンさんのオリジナル楽曲はもちろん、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides, Now」やキャロル・キングの「So Fa Away」を羊毛とおはなバージョンのアレンジで聴けたのもよかったし、個人的に好きな「僕らが旅に出る理由」や「銀河鉄道999」を聴けたのも嬉しかった。あと、MCが自由すぎて、めっちゃ笑わせてもらった(笑)。

あらためて思ったのは、月並みな感想だけれど、生演奏のライブはやっぱり違うなあ、ということ。同じ空間を共有して、音とともに空気の震えや熱気を肌で感じて……。動画配信では伝わらない決定的なもの、ライブだからこその愉しみと喜びがあるのだなあと、思い出させてもらった気がする。

これからはまた、もっと気兼ねなく、あちこちのライブに顔を出せるようになるといいな。