2回目のモデルナワクチン接種

先週の土曜の午後、2回目のモデルナワクチンの接種をしてきた。

接種したその日は、特に明確な違和感もなく、そのまま普通に寝たのだが、夜中の3時頃、ワクチンを打った右腕にひきつるような疼痛を感じて目が覚めた。体温を測ると上がりはじめていたので、相方が用意してくれていたカロナール(解熱剤)を服用。右腕の痛みは治まったが、目はすっかり醒めてしまって、よく眠れない状態が続いた。

明け方に2時間ほどうとうとして起きると、熱がぐんと上がって、38℃台に。こんなにわかりやすく熱が出たのはひさしぶりすぎて、いつ以来だったかも思い出せない。不幸中の幸いは、頭痛や悪寒、吐き気などはまったくなくて、ただただ体温が上がって身体がぽかぽか火照ってる状態だったこと。だから日中は、普通にパソコンやスマホを見ながらのんびり過ごすことができた。

夕方になって急に熱がすとんと下がって、ほぼ平熱に。晩飯も普通に食べられた。寝る直前にまた少し微熱が出たが、夜は前後不覚にぐっすり眠れて、今朝はすっかり元通り。ひさしぶりに自分でいれて飲むコーヒーがうまい。

ともあれ、これで、うっかりコロナを罹患しても重症化するリスクはなくなった。やれやれである。

「マーリ」

インド映画の特集上映「インディアンムービーウィーク2021 パート2」を開催中のキネカ大森へ、昨日に続いて今日も行ってきた。今日観たのは、ダヌシュ主演の「マーリ」。

チェンナイで下町を仕切る札付きのチンピラ、マーリ。その荒っぽい素行のせいで町の人々からは恐れ嫌われ、新任の警部アルジュンにも目の敵にされていたが、地元で盛んな鳩レース用の鳩の飼育には熱心で、一羽一羽の鳩に惜しみない愛情を注いでいた。そんな中、この界隈でブティックを新しくオープンした女性、シェリーとの出会いがきっかけで、マーリを取り巻く事態はにわかに慌ただしくなっていく……。

序盤は割とのんびりした展開で、あーなるほどーと思いながら観ていたら、インターミッションの手前あたりで、オセロで大量の石が一気にひっくりかえるような想定外の展開に。南インドのアクションコメディ特有のベタなお約束は守りつつも、最後まで飽きさせない展開で、よくできた映画だなあと感心した。

丸グラサンと奇天烈なヒゲに、チンピラのステレオタイプみたいな衣装でマーリを演じたダヌシュは、悪党を演るのが本当に楽しそうで、気持ちいいくらいに振り切れていた。本国では2019年に続編も公開されているそうなので、日本でも、ぜひ。

「マスター 先生が来る!」

今のインド・タミル映画界の至宝と呼ばれている二人の俳優、タラパティ(大将)ヴィジャイと、ヴィジャイ・セードゥパティ。それぞれ主演で数々の大ヒット作を世に送り出してきた二人が、夢の競演、しかも主役と敵役として真正面から激突する。そのとんでもない映画「マスター 先生が来る!」が、ついに日本でも日本語字幕つきで上映されることになった。何というかもう、この時点ですでに感無量である。

大学で心理学を教えるJDは、多くの学生に慕われる存在だったが、辛い過去の経験からアルコールに依存する日々を送っていた。大学内での学生会長選挙をめぐるいざこざで、3カ月の休職と、ナーガルコーイルという街の少年院での勤務を命じられたJD。しかし、その少年院は、街で急速に勢力を拡大するギャング、バワーニの悪事の温床となっていた。バワーニの非道な仕打ちから少年たちを守るため、JDは単身バワーニの一味に立ち向かおうとするが……。

丸々3時間にも及ぶ大作だが、物語自体はすこぶるシンプル。JDとバワーニの二転三転の知恵比べのような展開があるのかなと予想していたのだが、最初から思いのほか、駆け引きなしのノープランでの力勝負が展開されるので、二人の過去の作品と比べると、ちょっと意外だった。バワーニの生い立ちは冒頭である程度描かれていたが、JDの生い立ちは第三者の台詞でかいつまんで説明されただけだったので、そのあたりももうちょっと見てみたかったかなと(二人に過去の意外な因縁があったりするとなお面白かったかも)。JDとバワーニ、それぞれの人となりをもっと知ってみたかった気もするし、二人の直接の絡みももっと見てみたかったとも思う。

ヒロイン陣の存在がほぼ空気とか、少年院行きの真相それでいいのかとか、例によってツッコミどころはたくさんあるのだが、まあ……細けえことはどうでもいいんだよ(笑)。タラパティとVSPがボッコボコに殴り合う最後の対決は、単純明快に、ただただ、めちゃくちゃ熱い。あれだけでも観る価値は十二分にあるし、何ならもう一回観に行ってもいいと思ってるくらいだ。二人とも、いいぞもっとやれ。

インタビューという仕事について

フリーランスの編集・ライターになって、かれこれ20年になる。周囲からは、旅行関係の文章や写真の仕事が中心なのでは、と思われがちだが、仕事の割合で言えば、昔も今も、主に国内でのインタビューの仕事が中心だ。ジャンルや対象は時期によって結構違うけれど、今までインタビューしてきた人の数をおおまかに数えると、たぶん、1000人近くにはなる。びっくりするくらい有名な(でも面白いとは限らない)人もいたし、世の中的にはまったく知られてない(でもめっちゃ面白いことが多い)人もいた。

今思い返しても、インタビュアーとして駆け出しの頃の僕の文章は、てんでダメだった。地の文とか質問とかの言葉選びで、書き手である自分の色を出さなければ、と力みかえっていた。ただ、それから数年間、試行錯誤しながらあがき続けているうちに、そうした力みも、少しずつ薄れていったように思う。引き出さなければいけないのは相手の色であって、自分の色ではない。そんな当たり前のことに気付くまで、ずいぶん時間がかかった。

僕がインタビューをする時、自分自身の位置付けは、できるだけ無色透明のレンズのような存在としてイメージしている。相手から放たれる言葉や表情という光を、何の色もつけないまま受け止め、焦点を合わせて絞り込んでいく。それが理想だ。僕の書くインタビュー記事からは、書き手の恣意という色が、どんどん抜けていった。面白いことに、仕事の取引先や周囲の人たちは、そういう無色透明なインタビュー記事を「ヤマタカさんらしいね」と言ってくれるのだけれど。

インタビュアーとしての自分は無色透明な存在でいい、と思えるようになったのは、個性的なインタビュアーとして名を成したい、とは思っていなかった、というのもあるかもしれない。インタビュー記事を書くのは楽しいけれど、他の人の素晴らしい曲をカバーさせてもらって歌うようなものだ、と感じていた。それはそれで意味はあるけれど、歌うなら、自分自身の歌を歌いたい、とずっと思っていた。それが『ラダックの風息』『冬の旅』という、いささか振り切れすぎた形で(苦笑)現れてしまったのだった。

でも、今こうして旅の本を何冊も書くようになって、あらためて思うのは、これまでのインタビュー仕事の経験の蓄積が、ものすごく役に立っている、ということ。少し前に受賞した斎藤茂太賞の審査員の方々から「人が描けている」という選評をいただいたのだが、文章で「人を描く」には、その人の特徴や言動、そぶりなどを、つぶさに気に留めておく必要がある。インタビューの仕事では、そんな観察は脊髄反射的にやっているので、旅のさなかでも、その経験はそれなりに生きていたのだと思う。

インタビューでも、自分自身の言葉でも、大切なのは、伝えたいことをどれだけありのままに伝えられているか、なのだろう。

コワーキングスペースを試す

今日は、吉祥寺にあるコワーキングスペースに行って、お試しで何時間か作業をしてみた。

普段、デスクワークはほぼ100パーセント、自宅の仕事机でするようにしている。スタバやルノアールなど、自宅以外の場所で作業するのは苦手な方だ。ただ、最近は相方が、勤め先の事情でほぼ毎日、自宅でのテレワーク勤務になっている。普通のデスクワーク、つまりメールなどでの連絡業務や、頼まれ仕事の執筆や編集作業であれば、相方と机を並べての作業でも、別に気にならない。ただ、(これから入ってくるかもしれない)自分自身の新しい本の原稿を書き下ろす作業が発生すると、周囲の気配から隔絶された、一人で完全に集中できる環境があった方がいい。そこで、一人執筆作業環境の候補地として、コワーキングスペースを試してみることにしたのだ。

今回試したコワーキングスペースには、開放型の座席のほかに、一人分ずつ前と左右をパーテーションで完全に仕切った、ブース席がある。僕が目をつけていたのはこのブース席だったのだが、実際に試してみると、申し分のないぼっち感(笑)。周囲の動きが視界に入らない(つまり自分の挙動も周囲から見られない)と、自分の作業に没入しやすくなる。他の席でリモート打ち合わせなどが始まってしまうと、その声が漏れ聞こえてくるのが少し気になったが、ノイズキャンセリング機能付きイヤフォンを導入すれば、割と簡単に解決できそうだ。あとは、普段と違う環境を一人で体験できたので、単純にテンションが上がった(笑)。単発での利用だとそれなりの値段だが、月極プランとかだとかなり割安に使えるというのも、悪くない。

とりあえず、新しい本の企画、二冊分のどちらかが通ってからの話になるが、作業環境をうまく切り分けつつ、より良いコンディションで執筆に集中できるようにしようと思う。