物書きという仕事に携わるようになって以来、長短合わせて、それなりにたくさんの文章を書いてきた。納得のいく出来の文章もあれば、いろいろな理由で悔いの残る文章もある。でも、本当の意味で自分の中にあるすべての力——記憶とか感情とか、何もかも含めて——を出し切ったと思えたのは、「ラダックの風息」を書いた時だったと思う。
あの本の草稿は、2008年の春から秋までの半年間をかけて書き上げた。当時はまだラダックでの現地取材を続けていたから、草稿の大半を書いたのもラダック。自分のパソコンは持って行かなかったので、取材の合間を縫って、小さな紙のノートに端から端までびっしりと、ページが真っ黒になるまでひたすら書き続けた。
あの文章を書いていた時の感覚は、僕がそれまで経験したことのないものだった。馴染みのカフェの席に坐り、ノートを広げ、ペンを握り、ページを見つめる。すると、周囲の視界が急に狭くなって、物音も小さくなる。頭の内側がじーんと痺れたようになり、ペンを持つ手が知らぬ間に動き、文字を書き連ねていく。まるで、ペン先に米粒大ほどの小さな神様が坐っていて、次はああ書け、こう書け、と指図しているかのように。
「ラダックの風息」を書き上げた後、ペン先に小さな神様がちょこんと降りてきたことは、一度もなかった。どこがどう違うのか、僕自身にもわからない。でも、つい最近になって「もしかすると、あの神様が降りてくるかもしれない」と思える題材が見つかったような気がしている。まだどうなるか自分でもわからないけれど、また、あの時のような感覚で文章が書けるかもしれない。
大切だと思えること。伝えたいこと。それを、一心不乱に書く。