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寝る前に本を読む

今年に入ってから、毎晩、寝る前に30分から1時間ほど、本を読む時間を作ることにした。

きっかけは、去年の暮れに相方から、ポール・オースターの『4321』をもらったこと。晩年のオースター渾身の大長編なので楽しみにしていたのだが、この本、異様にでかくて重い。A5判ハードカバー、800ページ、重さ約1.1キロ(キッチンスケールだと計りきれなくて、体重計で計った)。僕は普段、本は鞄に入れて持ち歩いて、電車の中や喫茶店で読むことが多いのだが、この鈍器本を持ち歩くのはさすがにしんどい。それで、持ち歩き用の本は別に用意して、『4321』を家で読み進める時間を日課として設けてみよう、と考えた次第。

実際に毎晩、決まった時間に本を読む習慣を作ってみると、思いのほか、いい感じ。デスクライトの下で分厚い本を開く時間が来るのが、待ち遠しくなる。今読んでいるのが、圧倒的な物語力を持つ『4321』だからというのもあるが、別の大作系の本でも愉しくなりそうだ。岩波文庫版のメルヴィルの『白鯨』とか、ブルース・チャトウィンの伝記とか、家にある未読の本を手に取る時間にしていこうかな、と思う。

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ハン・ガン『すべての、白いものたちの』読了。ポーランドの首都ワルシャワに滞在しはじめた「私」と、もしかしたら「私」の代わりに生きていたかもしれない「彼女」のまなざしで、「白いもの」にまつわる断章が、選び抜かれた一語々々で綴られていく。清冽で、穏やかで、哀しく、美しい本。昨年のノーベル文学賞の受賞以来、日本の書店にもハン・ガン作品のコーナーが作られていて、売れ行きも好調のようなのだが、この『すべての、白いものたちの』を読めば、誰もが納得すると思う。

書き納め

年末年始は、やはりというか、予告通りというか、原稿を書き続けていた。

大晦日の前日に書いたのは、連載の最終回に掲載する予定の、3000字少々の短いエッセイだった。連載を開始した当初から、この内容の文章を最終回に用意することは、自分の中で決めていた。良い出来かどうかは、読者の方々に委ねるしかないが、ある意味、とても僕らしい……僕にしか書けない文章になったとは思う。

一年の最後に、自分で納得できる文章を書き上げることができて、少しほっとした。

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シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』読了。2024年に自分が読んだ本の中で、どれがよかったかな……と考えていた頃、年の瀬にふと読みはじめたこの本が、大外から一気にまくっていった感がある。少しずつ読むつもりが、ぐいぐい惹き込まれて、大晦日の夜に読み切ってしまった。サリンジャーの作品群と比較して語る人が多いようで、それはもちろんわかるのだが、個人的には同じ米国人女性作家のカーソン・マッカラーズを思い起こさせる読後感だった。みずみずしく、奔放で、時に可笑しく、時に哀しく……。本当に美しい、珠玉のような文章で、日本語訳の丁寧さ、誠実さも素晴らしかった。

とりあえずの仕事納め

年の瀬もだいぶ押し迫ってきたが、おかげさまでどうにか、仕事納めと呼べそうな状況にまで漕ぎ着けた。現時点で納品できるものは全部送ったし、今から急に何か依頼が来ることもないだろう。

今年の春先に着手して、十月末に最後まで書き上げた新刊の草稿は、版元のご配慮のおかげもあって、二カ月近くの時間をかけて推敲とリライトを施したので、かなり完成度を高めることができた。それらの原稿素材一式も無事に納品することができたので、ほっとしている。年明けからはいよいよ、編集作業が本格的に始まることになる。

その一方で、来年出す予定のもう一冊の新刊の作業は、十二月が私事でかなりバタバタしていた影響で、滞ったままだ。書き下ろし分が結構あるのだが、実はまだ全然……(汗)。これから、ほかの仕事や確定申告準備の合間を縫って、なるはやで書き進めなければならない。来年、頑張らねば……。

そんなわけで、仕事納めといっても、まあとりあえず、といった程度。たぶん年末年始も、何かしら、原稿を書いてるんだろうな。

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朱和之『南光』読了。二十世紀初頭に台湾の客家の名家に生まれ、留学先の日本でライカを手にしたのを機に写真家となった鄧騰煇(鄧南光)の生涯と残された写真をモチーフに、作家の朱和之が書き上げた小説。鄧南光と彼の周囲の人々の実際の生涯をなぞりながら、細かな部分を想像力で埋めていった感じの作品で、鄧南光が生きたそれぞれの時代の空気が、モノクロームの写真に彩色を施したように、文面に鮮やかに甦っていた。

八木清『ツンドラの記憶 エスキモーに伝わる古事』読了。探検家のクヌート・ラスムッセンが、二十世紀初頭に極地を探検しながら採録した現地の先住民に伝わる伝承の数々の中から、八木さんが選び抜いて和訳したものを、八木さんが撮影した写真とともに収録した一冊。読めば読むほど底知れない深淵を感じさせる、先住民の言葉たち。八木さんによる写真も、ひっそりと何気ないようでありながら、揺るぎない奥深さがある。美しい本だった。

抜かりなく、前へ

先週の月曜と、今週の月曜は、来年出す本についての打ち合わせがあった。それぞれ別の出版社から出す、別の本の。

そう、来年は、前半に一冊、後半にもう一冊、合計二冊の新刊を出す。前半の本は、今まさに原稿の推敲作業中で、年明けから春頃までかけて編集作業をして、連休前くらいには世に出す。後半に出す本は、すでにある程度は書けているのだが、これから一冊目の本の作業の合間に、足りない分を書き足して、六月頃から編集作業に入り、秋頃に出す。つまり2025年は、ほとんど息つく暇もなく、ひたすら本を作り続ける年になる。

きっと、いろんな苦労やつまずきがあって、大変な思いもするんだろうけど、それでも、自分が一番好きな仕事である本づくりに、首元までどっぷり浸れるのは、嬉しいし、楽しみでもある。順調に進められているからといって油断していると、思わぬポカミスをやらかして一生後悔するようなことになりかねないので、抜かりなく、一歩ずつ、前へ進んでいこうと思う。

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劉慈欣『三体』『三体II 黒暗森林(上)(下)』『三体III 死神永生(上)(下)』、文庫本ですべて読了。いやあ、途方もない……本当に途方もないスケールまで拡がっていく物語だった。最新の物理学や宇宙理論に関する豊富な知識と、奇想天外にも思える奔放なアイデアによって、壮大でありながら恐ろしく緻密な物語が組み上げられている。最初の巻に出てくる三体ゲームのくだりを読んでいても感じたが、この三部作自体、僕も昔やったことのあるシムシティやシムアースなどのシミュレーションゲームのように、人間世界と三体世界の歴史を鳥の目線でシミュレートした物語に思えた。都市や地球どころか、太陽系、銀河系、宇宙、次元、時間までも、最終的に織り込まれていくシミュレーション。誰かの思いも、命も、瞬く間に弾けて消え失せてしまう、儚さと虚しさ。それもまた、この世に生きとし生けるものの定めか。

まっしろな砂漠の果てに

今年の春頃から書き続けていた、新しい本の草稿を、昨日、最後まで書き終えることができた。

一冊の本を書くことは、誰も歩いたことのない、まっしろな砂漠の只中を、一人で歩き続けていくのに似ている気がする。そこには道も、足跡もなく、どこをどう進んでいくのかは、すべて自分で決めなければならない。書きはじめる前に、計画(プロット)はあらかじめ入念に考えてはいるけれど、いざ始めてみると、計画通りに進まないこともよくある。あまりにも長い時間、その本のことをずっと考え続けているので、しまいには、それが本当に面白いのかどうか、自分ではわからなくなってしまう。

前に書いてきた本では、一番最後の数行にどんな文章を書くか、あらかじめ決めていたことがほとんどだった。でも今回の本では、最後の章までの大まかな構成を考えておいただけで、どんな文章で締めるのかは、あえて決めないまま、書き続けていた。まっしろな砂漠を歩きながら、どこで歩き終えるのかを、自分の感覚で見定めたかったのだと思う。

その最後の文章は、思いがけないほど、すんなりと現れた。自分の中から捻り出して書いたというより、しぜんと目の前に舞い降りてきたような文章になった。それでもまだ、この本がほかの誰かにとって面白いものになっているかどうか、自信はまったく持てないのだけれど。

この後は、いったん冷却期間を置いて、じっくり読み返してから、推敲とリライトに着手。年明けからは、本格的な編集作業が始まる。頑張らねば。やらねば。