今年の夏のラダックでは、写真の撮り方について、さんざん悩んだ。
「ラダックの風息」を書くための取材をしていた頃は、がむしゃらというか、必死というか、無我夢中でシャッターを切り続けていた。小手先のテクニックなどいっさい使わず(というか、そんなもの何も知らない)、真正面からの体当たり。だからこそ撮れた写真もあったし、ラダックの自然や人々にも、素直な気持で向き合うことができたと思う。
だが、ラダックという場所に慣れ、言葉を覚え、自分なりの撮り方が固まっていくうちに、本当にこの撮り方だけでいいのだろうか、という疑問が頭をもたげてきた。子供のかわいい笑顔が撮れたら、それで満足なのか? 笑顔は確かに魅力的だけど、それ以外の写真を撮る選択肢もあったかもしれないのでは? と。
滞在中、そんなことを考えているうちに、写真を撮る時、なんとなく迷いを感じるようになった。たぶんそれは、テクニック面ではなく、気持の面での問題だったのだと思う。なまじ、ラダックでいろんなことに慣れてしまったから、その上で、どういう気持、どういう心構えで写真を撮っていけばいいのか、わからなくなってしまったのだ。
一枚々々にきちんと気持を込めて写真を撮り続けるには、その気持をどういう方向に向けて放っていくのかを確認しておかなければならない。自分が伝えたいことは何なのか? それは自分にとって何なのか? そこがはっきりしていれば、どんな場面に遭遇しても、脊髄反射でシャッターを切ることができるはず。だが、今回のラダック滞在では、そこがちゃんと固まりきっていなかった。納得のいくカットより、反省すべきカットの方がはるかに多かった。写真の難しさ、写真の怖さというものを、今さらながら痛感している。
迷いは、今も晴れてはいない。さて、いったいどうしたものか‥‥。次にラダックに戻る前に、短期間でいいからどこか別の場所を撮りに行って、自分の撮り方を再確認してみてもいいのかもしれない。