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「ジェイラー」

羽田からデリーに向かう機内で、劇場公開時に未見だったラジニカーント主演の「ジェイラー」を、日本語字幕付きで観た。

警察の仕事を引退し、妻や息子一家とともにチェンナイで平穏に暮らしていたムトゥ。しかし、同じく警官として美術品マフィアを追求していた息子のアルジュンが行方知れずになってしまう。かつて、怖るべき力を持つ刑務所長〝タイガー〟として君臨していたムトゥは、その時代から従えていた元受刑者たちの助力を得ながら、マフィアたちとの争いに身を投じていく……。

この作品に限らず、ラジニカーント主演の映画は、ある種のお約束的な様式美を楽しむものだと僕は思っている。ラジニ様は、基本的にまったく窮地に陥らず、どんな相手が出てこようが、涼やかな笑みを浮かべながら、あっという間に叩きのめしてしまう。ご高齢ゆえに派手なアクションやダンスは無理なのだろうが、表情と手先足先の動き、そして巧みなカメラワークとカット割りの工夫によって、無敵のラジニ様が画面に現出していく。

しかし、この作品は……最後があれで……異様に後味が悪かった……。うーむ。

どうにか帰国

昨日の朝、ラダックから東京に戻ってきた。

今回の帰路は、いろいろ手間取って、まあまあ大変だった。レーを発つ日は朝から快晴で、これなら問題なくデリーに飛べると安心していたら、搭乗便が直前になって1時間半の謎のディレイ。なんとかデリーの空港に着いた後も、預け荷物が出てくるまでかなり待たされたり、出国審査のカウンターで前に何やらややこしい事情らしき人がつっかえていて、さらに待たされたり。ようやくセキュリティチェックを終えたのは、国際線の搭乗開始の1時間前。空港でお土産を物色する余裕もろくにないくらいの時間になってしまった。

東京までのフライトはANAだったのだが、近くの席に、インドでも最近あまり見かけないくらいダメなおっさんたち二人がいて。あたり構わずゴミを散らかすわ、前後の席にどかどか身体を当てまくるわ、食事を終えて消灯時間になってもずーっと大声でしゃべり続けてるわ。あげくの果てに、隣席で耐えていた日本人女性客に、暗い中でスマホ画面を見せながらしつこく絡み続けるという。別の乗客が見かねてCAさんを呼び出し、件の女性客の方は、空いていた別の席に移動することなった。そんなこんなの騒ぎで、機内では1時間も眠れなかった。いろんな意味で疲れた……。

それでもまあ、昨日は家で、昼も夜も寝まくったので、今朝はすっかり元気になった。なので、ご心配なく。

台風に振り回されて

明日から三週間ほど、インドのラダックに行く。ツアーガイドの仕事と、個人での取材も少々。

実は今週、渡航に関するドタバタで、結構大変だった。当初、出発日の土曜には何の影響も及ぼさなさそうだった台風9号の進路が、日を追うごとに日本列島寄りに変化。水曜夜の時点では、羽田空港が土曜朝に強風域に入りそうな予報が出て、航空会社からも振替便の案内が出されるほどだった。僕も旅行会社といろいろ検討して、どうにもならなさそうなら、出発を一日早めて金曜にして、デリーで二泊する形にしよう、という話にまでなっていた。

出発前に国内で片付けとかなきゃいけない仕事も結構あったので、もし、急に出発が一日早まってしまうと、相当せわしないことになる。その上、今回は特に用事もない雨季のデリーで一泊余分に泊まるのは、正直、かなり気が重かった。

昨日の朝の時点では、もうほとんどあきらめていたのだが、昼頃に出た台風情報を見ると、台風の速度が少し速くなって、進路も少し東に逸れはじめていた。土曜の天気予報も次第によくなりはじめて、これなら飛行機にもほぼ影響はないのでは、という状態にまでなった。旅行会社からも連絡が来て、とりあえず当初の予定通りに動いて、それでもし欠航になったら、日曜は確実に大丈夫そうなのでそちらに振り替えましょう、という結論に。

ふう……それにしても今年は、いろんなことが起こるなあ……。

というわけで、しばらく留守にします。帰国は八月下旬の予定。では。

「私たちが光と想うすべて」


2024年のカンヌ国際映画祭で、パルム・ドールに次ぐ賞であるグランプリを受賞したインド映画「私たちが光と想うすべて」。パヤル・カパーリヤー監督は、初めて手がけたこの長編劇映画での受賞を機に、世界各国、そしてもちろん、インド国内でも注目されるようになった。

雨に濡れ濡ったムンバイの街で暮らす人々。海外に働きに出たまま音信不通となっている夫を持つ、看護師のプラバ。年下の同僚でルームメイトのアヌは、イスラーム教徒のシアーズと秘密の交際を続けている。病院の食堂で働くパルヴァティは、高層マンション建設のために住処からの立ち退きを迫られている。ヒンディー語をうまく話せない医師のマノージは、不在の夫を持つプラバに密かな思いを寄せている。そんなある日、故郷に帰るというパルヴァティに付き添って、プラバとアヌは海辺の村を訪れる……。

貧富の差。男尊女卑。異なる宗教。異なる母語。さまざまな格差やしがらみ、あるいは断絶に、ままならない人生を過ごす人々。ものすごく劇的な出来事が起きるわけではなく、わかりやすい答えが用意されているわけでもない。にもかかわらず、電飾で彩られた海辺の食堂を遠くから捉えた最後のシーンに、胸の裡がほんのりと温かくなったのは、なぜだろう。

この映画でとりわけ印象に残ったのは、夜のアパートの窓辺で、プラバがスマートフォンのライトで手元を照らしながら、マノージから贈られた手帳に書き留められた詩を読む場面だ。背後の窓の外にはムンバイの夜景が広がり、列車が高架線路をガタンゴトンと走っていく。本当に美しい映像で、あの場面を見れただけでも、映画館に足を運んだ甲斐があったと思えた。

「レオ:ブラッディ・スウィート」


「囚人ディリ」「ヴィクラム」に続く、ローケーシュ・カナガラージ監督の「ローケーシュ・シネマティック・ユニバース」(LCU)作品の第三弾「レオ:ブラッディ・スウィート」。主演はヴィジャイ、ヒロインにトリシャー、敵役になんとサンジャイ・ダットという豪華な顔ぶれ。

舞台は、ヒマーチャル・プラデーシュ州の小さな街。カフェのオーナーで、野生動物の保護活動もしている(凶暴なハイエナも手懐けて飼ってしまう)タミル人のパールティバンは、ある日の夜、店に押し入ってきた強盗団から娘と店のスタッフを守るため、全員を一人で叩きのめして射殺してしまう。裁判で正当防衛が認められたものの、ニュースに取り上げられたパールティバンの写真を見て、ある闇の組織が彼をつけ狙いはじめる。彼らはなぜか、パールティバンを「レオ」と呼ぶ。レオとはいったい何者なのか……。

物語の基本的な構造は、僕は未見なのだが、デヴィッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」という作品にヒントを得ているらしく、似ている部分も多いという。まあ、パールティバンは最初からあまりにも強すぎるので、普通の一般市民と考えるのは、誰が見てもさすがに無理がある。だから、結末までの道筋も何となく予想できてはいたのだが……最終盤でさらに超絶強すぎるヴィジャイが現れてしまった。いや、まじで強すぎ。たった一人でかよ、と……。

ただ個人的には、物語の中盤から幾度となく描かれていた、自らが犯した暴力や殺人行為に対するパールティバンの苦悩や逡巡や後悔の積み重ねが、最後の最後にすべて完全に裏返ってしまったことに、何というか……薄気味悪さのようなものを感じた。今作では描かれなかったパールティバン、あるいはレオの本当の心の内面は、これからLCUで続いていくであろう物語で描かれるのだろうか。

あと、ヒマーチャル・プラデーシュ州に、野生のハイエナはいるのだろうか。いなさそうな気がする……(苦笑)。ユキヒョウやオオカミなら生息地的にありえなくはないが、物語で描かれたような凶暴性を持たせるには、ハイエナの方が適役と判断したのかもしれない。まあ……映画だから(笑)。