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「バーフバリ 伝説誕生/王の凱旋」

2017年、少ないながらもそれなりにいろんな映画を観てきたが、最終的には「バーフバリ」の前後編2作が、なんかもう、ぜ〜んぶ持っていってしまったような気がする。

インドの架空の古代王国、マヒシュマティ王国をめぐる、愛と憎しみと戦いの物語。春に前編が公開された時は、確か新宿ピカデリーで、1日1回、1週間限定上映という形で始まったはずだ。僕はたまたまそれを観に行ったのだが、予想をはるかに上回る衝撃で……。超どでかいビッグウェーブにさらわれて、うっわあ〜と圧倒されっぱなしだった。評判が評判を呼び、前編は各地で拡大上映。満を持しての後編は、段違いに大きな規模での上映となった。僕自身、後編は公開初日の席をネット予約して劇場に向かったのだが、そうまでするほど観るのが待ち遠しいと思えた映画は、ずいぶんひさしぶりな気がする。

とにかく、すべての場面、あらゆる要素が、過剰すぎるくらい過剰。カッコよすぎるくらいカッコよく、美しすぎるくらい美しく、激しすぎるくらい激しい。でも、そうして盛りに盛られた(でも緻密に作り込まれている)場面描写のビッグウェーブにどっぷり浸っているのが、この上なく心地いい。現実離れしてるとか荒唐無稽だとか、そんな指摘にはまったく何の意味もない。まずは何も考えずに、観て、圧倒されて、茫然とする(笑)。それが「バーフバリ」の楽しみ方だと思う。ジャイ、マヒシュマティ!

「希望のかなた」

アキ・カウリスマキ監督の新作「希望のかなた」は、前作「ル・アーヴルの靴みがき」から始まった「港町3部作」改め「難民3部作」の2作目。前作はアフリカから来た不法移民の少年だったが、今回は戦乱に揺れるシリアから逃れてきた青年、カーリドが主人公。ハンガリー国境で生き別れとなった妹を探すべく、言葉も何もわからないフィンランドで難民申請をして、悪戦苦闘するカーリド。そんな彼と偶然出会った人々、一人ひとりのささやかな善意が、彼の行く先を少しずつ照らしていく……。

「ル・アーヴルの靴みがき」には意図的に現実離れした結末が用意されていたが、「希望のかなた」にはそれとある意味対照的な、一筋縄ではいかない展開がセットされている。世の中には善意を持つ人々が大勢いるけれど、理解に苦しむ悪意を抱く人もわずかながら(あるいは少なからず)いる。時には、そんな悪意の刃が、取り返しのつかない事態を呼び寄せることもある。

カウリスマキ監督がこの作品で描こうとしたのは、ある意味、そうした現実の構造そのものだったのだろう。彼独特の台詞回しと間合いと場面描写とで作品自体がフィクショナライズされていることで、かえって今の世界の生々しさと不条理さが浮かび上がってきて、後を引く。

それでも僕は、この「希望のかなた」の結末は、ハッピー・エンドだと思えて仕方ないのだ。僕たち一人ひとりが、これからの世界をハッピー・エンドに向かわせる努力をしなければならない。本当の希望は、たぶんその先にあるのだろう。

サンタクロースは実在するのか問題

同年代の友人に子持ちの人が増えてきて、クリスマスの季節になるとみんな異口同音に、「子供にサンタのことをどう説明するか悩んでいる」という書き込みをFacebookやTwitterでつぶやいている。幸か不幸か、僕にはそういう悩みはないのだが。

先日、吉祥寺の古書店book obscuraで開催された写真家の角田明子さんのトークイベントにお邪魔した。何年も前から日本や北欧のサンタクロースの撮影を続けている角田さん自身も、かつてお子さんから「サンタは本当にいるの?」と訊かれて答えに窮したことが、このテーマでの撮影を始めたきっかけだったという。

北欧諸国では、グリーンランド国際サンタクロース協会が認定したサンタクロース約120人が、福祉施設や小児病棟への訪問など、サンタとしての活動を行っている(フィンランドはちょっと事情が別らしい)。角田さん曰く、サンタクロースとしての志、サンタ・スピリットを胸に抱いて日々活動している彼らのような人たちがいるのだから、サンタが実在するかどうかを話題にすること自体、ある意味ナンセンスなのだ、という。公認サンタクロースだけではない。親であれ、誰であれ、サンタ・スピリットを持っている人なら、その人はサンタクロースなのだと。

「サンタはいるの?」と訊かれたら、僕も「いるよ、もちろん」と答えよう。自信を持って。

ちっぽけな思いから

最初に、自分一人だけで一冊の本を書こう、と思い立った時、心に決めていたのは、自分という人間の存在ができるだけ表に出ないようにしよう、ということだった。

自分の目の前で起こる出来事の一つひとつを丹念に見定めて、文章と写真で、それらをできるだけ忠実に描写する。個人的な感傷や思い入れで邪魔しないように気を配りながら、言葉を選ぶ。自分という人間が何者なのか、読者にはまったく気にされなくて構わない。そう思いながら、本を書き上げた。

そうして完成した本を読んだ僕の知り合いの何人かは、異口同音にこう言った。この本は、まぎれもなく、あなたの本だ。この本には、あなたの思い入れが、これ以上ないほどあふれている、と。そんな感想が返ってくるとは想像もしていなかったので、僕はすっかり面食らってしまった。

世界のとある場所とそこで暮らす人々のことを、徹底的に追いかけて、ただひたすらにそれを伝えようとしていたら、そこに立ち現れたのは、僕という一人のちっぽけな人間の姿だったのだ。

だったら、その逆は、あるのだろうか。

僕という一人の人間の、本当に個人的な、ちっぽけな思いから、遥か彼方への旅を始めたら、その先は、どこにつながっていくのだろうか。この世界の、底の見えない深淵につながっていくのだろうか。何かの理が、目の前に現れたりするのだろうか。

その旅は、もう始まっている。

夕焼けの色

午後、八王子で大学案件の取材。帰りの中央線の中で見た夕焼けの淡い色が、とても綺麗だった。冬になって、大気が乾いて澄んでくると、ああいう淡い色になるのかもしれない。そういえば、ラダックで見る夕焼けは、ほとんどが淡い色だったような気がする。色が変わったと思ったら、あっという間に夜になるような。

以前、夏のカンボジアを乗合のワゴン車で移動していた時に見た夕焼けは、すごかった。熟れに熟れたザクロのような真紅の夕焼けが、東西南北、空のすべてを覆い尽くすように広がっていた。東南アジアの湿気で潤んだ大気の中だと、空もあんな風に染まるのだろう。

極北の地、アラスカでは、夕焼けの色も淡いのかといえば、そうでもない。大気に湿気は感じないのだけれど、夕焼けの色は、時にはまるで超高温で燃える炎のように鮮やかで、自然のものとは思えないような色になる。しかも、日によって、天気によって、同じ場所でも空の表情はまるで違うのだ。

そんなことを考えていたら、そろそろまた、旅に出たくなってきた。