Tag: World

まっしろな砂漠の果てに

今年の春頃から書き続けていた、新しい本の草稿を、昨日、最後まで書き終えることができた。

一冊の本を書くことは、誰も歩いたことのない、まっしろな砂漠の只中を、一人で歩き続けていくのに似ている気がする。そこには道も、足跡もなく、どこをどう進んでいくのかは、すべて自分で決めなければならない。書きはじめる前に、計画(プロット)はあらかじめ入念に考えてはいるけれど、いざ始めてみると、計画通りに進まないこともよくある。あまりにも長い時間、その本のことをずっと考え続けているので、しまいには、それが本当に面白いのかどうか、自分ではわからなくなってしまう。

前に書いてきた本では、一番最後の数行にどんな文章を書くか、あらかじめ決めていたことがほとんどだった。でも今回の本では、最後の章までの大まかな構成を考えておいただけで、どんな文章で締めるのかは、あえて決めないまま、書き続けていた。まっしろな砂漠を歩きながら、どこで歩き終えるのかを、自分の感覚で見定めたかったのだと思う。

その最後の文章は、思いがけないほど、すんなりと現れた。自分の中から捻り出して書いたというより、しぜんと目の前に舞い降りてきたような文章になった。それでもまだ、この本がほかの誰かにとって面白いものになっているかどうか、自信はまったく持てないのだけれど。

この後は、いったん冷却期間を置いて、じっくり読み返してから、推敲とリライトに着手。年明けからは、本格的な編集作業が始まる。頑張らねば。やらねば。

「ジョイランド わたしの願い」

カンヌ国際映画祭にパキスタン映画として初めて出品され、「ある視点」審査員賞とクィア・パルム賞を獲得した、サーイム・サーディク監督の映画「ジョイランド わたしの願い」。その衝撃的な内容から、パキスタン国内ではいったん上映禁止措置が取られたが、多くの人々の支援によりその措置は解除。ただ、映画の舞台となった大都市ラホールのあるパンジャーブ州(パキスタン側)では、いまだに上映が禁止されているという。

パキスタンの、ある一家についての物語。失業中の身ながら、家事全般や姪っ子たちの世話をかいがいしくこなす一家の次男、ハイダル。妻のムムターズは、メイクアップアーティストの仕事に日々充実感を感じている。車椅子での生活を強いられながらも家父長制特有の厳格さを保ち続ける父と、その厳格さをそっくり受け継いだ長男のサリーム。サリームの妻のヌチは、4人も子供を生みながらも男児に恵まれない。ハイダルが成人向けの劇場で、ヒジュラのダンサー、ビバのバックダンサーとして密かに働くようになったことから、それぞれの望む居場所に、次第にひずみが生じはじめる……。

つらい映画だった。優しくて、鋭くて、繊細で、美しくて……でも、どうしようもなく悲しい。本当の意味では誰も悪くないのに、家父長制や偏見や差別といった社会の呪いにがんじがらめに囚われて、居場所を奪い取られていく。こうしたことが起こりうるのは、パキスタンのようなイスラームの国に限らない。日本でも、どこの国の社会にも、同じような呪いは存在する。

これは、覚悟を決めて、きちんと見届けておくべき映画だと思う。

アラスカのマクドナルドで

この間のアラスカ取材で拠点にしていたのは、ケチカンという街だった。南東アラスカの入り組んだフィヨルドの只中にある人口8000人ほどの街で、ほかの街と陸路ではつながっておらず、漁港と水産加工、あとはクルーズ船の寄港地として知られている。

クルーズ船が接岸するあたりが街でもっともにぎやかな地域で、たくさんの土産物屋やレストラン、酒場などが集まっているのだが、その一帯以外は、どこもさびれていると言っていいほど閑散としている。寂しい街だな、というのが、ケチカンに対する僕の印象だった。

僕が泊まっていた安ホテル(といっても円安の影響でかなり高い)は、街の中心から2キロほど離れた場所にあった。すぐ近くにセーフウェイという大きなスーパーといくつかのテナントが入ったビルがあり、マクドナルドもそこに入っていた。そのあたりにはほかに手頃なレストランも見当たらなかったし、食費を節約する必要もあったので、僕はほぼ毎日、マクドナルドで晩飯を食べていた。それでも、普通のクォーターパウンダーのセットメニューが2000円もするので、青息吐息の心境だったが。

街外れのさびれた雰囲気を反映するかのように、そのマクドナルドの店内にはいつも、どことなく物悲しい空気が漂っていた。毎日通っていると、いろんな人を見かけた。

ある日は、隣の席で、二人の若い男がそれぞれノートPCを開いて、動画の編集作業に取り組んでいた。なぜわかったかというと、一方の男が、常にスピーカーオンの状態で、自分たちで撮ったらしい動画をけたたましく再生させていたからだ。その男は動画を何度も再生させたり止めたりしながら、「な、これウケるよな! めっちゃおもろいな! な! な!」と一人笑いながら、ひっきりなしにもう一方の男に話しかけていたのだが、もう一方の男はずっと、まったく口を開かずに、黙々と作業を続けていた。

別のある日には、レジの前で、恰幅のいい白髪の白人の男が、同じくらいの体格の黒人の男に対して、急にキレて、怒鳴り散らしはじめた。ものすごい大声で「お前は……レイシストだ! このレイシストめ! ○○○○! ××××!」と叫んでいる。黒人の男は、ただただ困惑していた。それはそうだろう。店内の誰もが、状況を理解できずにいた。

マクドナルドのレジには、白髪に眼鏡をかけた、痩身の老人が座っていることが多かった。最近はほとんどの人がタッチパネルの機械で注文するので、レジでの店員の役割はカードや現金の受け渡しくらいなのだが。たまに、外の駐車場にいる客に商品の入った紙袋を届けに行ったりする時、その老人はふらふらした足取りで店内を横切り、外に出かけていた。あの年齢で、この小さな街のマクドナルドで働くのには、何かわけがあるのだろうか。

何も特別なことは起こらなかったけれど、あのマクドナルドで目にした光景は、ある意味、アラスカで暮らしている人々のありのままの日常だったのかな、と思う。

———

ツェリン・ヤンキー『花と夢』『チベット女性詩集 現代チベットを代表する7人、27選』、ともに読了。前者は、やむにやまれぬ理由で故郷を離れ、ラサのナイトクラブで身を削って働く四人の女性の悲しい物語。後者は、チベットの女性詩人たちがチベット語で書いた現代詩を厳選し、コラムとともに編んだ詩集。この二冊を併せて読むと、現代のチベットとチベット人、特に女性たちの置かれている状況がよく理解できる。もちろん、文学作品としてもどちらも素晴らしい本で、星泉先生が訳した『花と夢』は第61回日本翻訳文化賞受賞、海老原志穂先生が訳した『チベット女性詩集』は第60回日本翻訳文化賞翻訳特別賞を受賞している。チベットに興味のある人にはおすすめの二冊。

「ソング・オブ・アース」


ノルウェーの女性映画監督、マルグレート・オリンが手がけたドキュメンタリー映画「ソング・オブ・アース」を観た。ノルウェーの著名な女優リヴ・ウルマンと、ヴィム・ヴェンダースが製作総指揮を担当している。

映画の舞台は、ノルウェー西部のオルデダーレン渓谷。巨大な氷河の突端から始まる渓谷は長さ20キロにわたり、オルデン村のノールフィヨルドで海に達する。この辺境の地は、マルグレート・オリン監督の故郷であり、年老いた両親が今も暮らしている。カメラは一年を通じて、オルデダーレン渓谷の春夏秋冬の移ろいと生きとし生けるもの、そして父と母の姿を追いかけていく。説明的なナレーションはなく、両親の独白がぽつぽつと差し込まれるだけ。オルデダーレンの自然が織りなす壮大な風景そのものが、何よりも雄弁に観客に語りかけてくる。

土地は違えど、自分がラダックやアラスカで目にしてきた光景と、時に驚くほどよく似た映像が織り込まれていて、自然への憧憬と畏怖の思いがあらためて甦ってきた。寡黙だが、いつのまにか、心がすーっと惹き込まれてしまう映画だった。

アメリカの物価

一昨日の午後、アラスカから東京に戻ってきた。七月上旬から、インド、アラスカと断続的に続いていた旅も、ようやく一段落。しばらくは自宅で落ち着けそうだ。

アラスカでの滞在は、とにかく今のアメリカのえぐすぎる物価高に、辟易とさせられた日々だった。何をするにも買うにも、単純に日本の倍くらいかかるし、それなりのクオリティのものを選ぶとさらに高くつく。食費を少しでも節約するために、宿の近所にあったマクドナルドをほぼ毎日利用せざるを得なかったのだが、普通のクオーターパウンダーとポテトとコーラのセットが、2000円にもなる。何かを買うためにカードを取り出して決済するたび、ぼったくり店でむしられてるような気分になった。

でも、そうしたギャップは、アメリカの物価が値上がりしてるだけでなく、日本円の力が弱っているのも少なからず影響している。世界の他の国々と比べても、日本の国力は刻々と衰退していると感じる。居座り続ける政府与党の為政者たちを総取っ替えしなければ、この凋落は止まらないだろう。

青息吐息で日本に戻ってきて、スーパーやコンビニに並ぶ商品の値段を見ると、めちゃめちゃ安いなあ……と感じてしまうようになった。日本を訪れる外国人旅行者の金銭感覚が、ほんの少し、理解できたような気がする(笑)。