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荷造り再び

明日から、母の旅行の付き添いで、二週間ほどアラスカに行かねばならない。なので、今日はその荷造りをば。

今回の旅は期間も短いし、取材の仕事でもないので、ラダックに行く時に比べると荷物はだいぶ少なめ。寝袋も必要ないから、ひさしぶりにグレゴリーのデイ&ハーフパックを使う。この間買ったベルボンの三脚をフリースジャケットにくるみ、ゴアテックスのパーカ、ソフトシェル、トレッキングパンツ、替えの下着、洗面道具などを詰めると、ちょうどぴったり収まった。撮影機材は長年の酷使ですっかりボロボロになったロープロのカメラバッグに詰めたが、こちらもいつもよりは軽め。全体的にずいぶんコンパクトにまとまった。

先日、今回の旅を手配した旅行会社から電話があって、「ベテルスやカトマイに行く時に乗る小型飛行機には大型のトランクは積めないので、三、四泊分の荷物を入れるバッグを別に用意してほしい」と言われたのだが、僕の場合、全部の荷物が三、四泊分くらいしかない(苦笑)。ま、自分で全部ひょいひょい運べるくらい身軽なのはいいことだ。

帰国は9月14日(金)夜の予定。ではまた。

つかのまの日常

一昨日の夜、デリーから香港経由で、東京の自宅に戻ってきた。

到着後、旅装をほどいて洗濯を片付け、たまったメールを整理し、カオスと化した郵便ポストの中身を仕分け‥‥。またラジオへの出演依頼が届いたり、仕事の打ち合わせの打診をされたり、何だかんだでばたばたしていた。

今日は、昼に赤坂で仕事の打ち合わせ。終わった後、新宿に移動して、本を二冊買い、映画を観て、ラーメンを食って帰ってきた。日本でのつかのまの日常。というのも、来週後半からは、今度は母への付き添いでアラスカに行くことになっているのだ。正直、僕は団体行動がとことん苦手なたちなので、はたしてどうなることやら‥‥。

とりあえず、日本にいる間は、のんびりするつもりでいる。

出発前夜

明日からしばらくラダックに行くので、朝からその準備に追われる。ベッドシーツやら何やらを洗濯して乾かしたり、荷造りの仕上げをしたり。夕方までにどうにか終わったが、レーまで抱えていくガイドブックの見本誌10冊の重さに、早くも心が折れそうになる(笑)。

夜はリトスタで、恒例の最後の晩餐。冷やしナスの胡麻醤油だれ、アジフライ、レタスと塩豚の酢蒸し。しばらくはこういうものも食えなくなるなあ。まあ、仕方ない。メギで我慢しよう(笑)。

というわけで、こちらのブログは更新をしばらくお休みします。帰国は8月20日(月)の予定です。では。

狙いに狙う

終日、雨。身体がだるかったので、午後に少し仮眠。身体がしゃっきりしたところで、原稿を書く。

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写真を撮る技術で、自分がまだまだダメだなあと思うのは、いい写真を狙って撮ることができてない、ということ。

このブログのポートフォリオに載せている写真も、自分からシャッターチャンスを察知して、狙いに狙ってモノにしたという写真は、実のところ、あまりない。むしろ、「とりあえず撮っとくか」的な感じで何の気なしにパシャッと撮った写真の方が、周囲の評価が高かったりする。いい写真ってどうやったら撮れるんだろう、と思うこともしばしば。

ただ、「狙いに狙う」ことを止めたら、いい写真が撮れなくなるのは間違いないと思う。何というか、いい写真を愚直に狙い続けていれば、周囲に注意が張り巡らされて、狙いとは違うところで何気ない瞬間が訪れても、脊髄反射で反応できる気がする。狙ってないと、ほぼ絶対に反応できないから。

狙ってモノにする確率も、まぐれ当たりの確率も、両方上げていくのが理想かな。修練せねば。

謝孝浩「スピティの谷へ」

この「スピティの谷へ」という本の存在を初めて知ったのは、ずいぶん前‥‥僕がアジア横断の長い旅を終え、フリーランスの立場で物書きの仕事をするようになって、しばらく経った頃だったと思う。その時は、書店で気になって手に取ったものの、持ち合わせがなかったか何かで買わなかったのだが、「インドのこんな山奥のことを本に書く人がいるんだ」という記憶は頭の隅に残っていて、数年後に自分がラダック取材を思い立った時のヒントにもなった。そして一、二年ほど前、今はなき新宿のジュンク堂で、この本の在庫が残っていたのを見つけて購入。いろいろ落ちついたらゆっくり読もうと思い続けていたのだが、ようやく読み終わった。

僕自身、スピティには2008年の初夏に二週間ほど滞在したことがある。ラダックやザンスカールに比べると、スピティはどことなく穏やかで、谷間をゆるやかに吹き抜ける風の冷たさが印象的だった。特に、ランザという村の民家に泊めてもらった時に見た、透き通るような朝の光に包まれた村の風景は、忘れることができない。出会った村人たちのおっとりとした笑顔も、いつかまたここに戻ってきたい、と思わせるものだった。謝さんの文章には、そうしたスピティの穏やかな自然や人々の暮らしぶりが丁寧な筆致で描かれているし、二人のフォトグラファーによる写真の数々は、ページをめくるたびにスピティへの憧憬を後押しする(一人ぼっちであくせく取材してた身としては羨ましくもある、笑)。個人的には、ダライ・ラマ法王のカーラチャクラ灌頂の会場で、顔なじみの村人たちと次々に再会した時のくだりが、謝さんの人柄が表れている気がして、とてもいいなあと思った。

ただ、読み終わって感じたのは、謝さんはなぜスピティにそこまで惹かれたのか、ということ。紀行文にそういう書き手の個人的な心情を書き込むというのは、もしかするとスマートではないのかもしれない。でも、僕が「ラダックの風息」を書いた時は、自分がラダックに心惹かれた理由を突き詰めることにものすごくこだわったし、書くのに苦しんだし、それでも書き切れたという確信が持てないくらいだった。同じインドのチベット文化圏に心惹かれた人がなぜこの場所を選び、通い詰めたのか、その思いの根っこの部分をもっと知りたかったというのは正直な感想だ。

それでも、謝さんにとってスピティがかけがえのない場所だということは、この本から十二分に伝わってくる。あとがきにも書かれていたけれど、東京のような街で暮らしていても、遠い彼方にもう一つの大切な場所の存在を感じられるというのは、とても幸せなことだなと思う。