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ごった混ぜ進行

とにもかくにも、今の時期、確定申告の準備がつらすぎる。

それでなくても、新しい本の編集作業は佳境に突入しているし、各方面との連絡業務、展示やイベントの準備、国内での取材の準備、先日のラオス取材の写真の現像と整理もある。あらゆることがごった混ぜの同時進行。そんなところに確定申告みたいなものをぶちこまれた日には……。もともとシングルタスクな旧人類なので、こういう状況に陥ると、目が回りそうになる。

ともあれ、仕訳帳などの整理はさっきどうにか終わって、あとは決算書などを準備すれば……というところまで漕ぎつけた。達成感とかはまるでなく、ただただ感じるのは、徒労感。やれやれ。

確定申告やつれ

ついに、というか、ようやく、というか、嫌々ながら、確定申告の準備に着手。

書類ケースを開けて去年の領収書をひっぱりだし、月別、用途別に仕分けて、数字をまとめていく。ネットで買い物をした分は、カードの口座とネットショップの履歴を確認して、これも月別、用途別に整理・確認。あとは家賃や光熱費の情報と、もちろん収入の情報と……まだ支払調書が届いてないクライアントもあった。その後は仕訳帳を作って、もろもろの書類を作成する準備をして……。

あほか。めんどくさ。毎年々々、時間とエネルギーの無駄。

夕方、晩ごはんにスープを煮ている時、何の気なしに体重計に乗ったら、去年の暮れ頃からの最低値を記録していた。カオニャオ太りの後からの、確定申告やつれ。やれやれである。

生き方を自分で選ぶということ

年末年始に実家方面の人間たちと会った時、何かと話題に上っていたのは、春から高3になる姪っ子の進路についての話だった。

岡山で中高一貫の進学校に在学している姪っ子は、周囲の優秀な子たちと相対的に比べられることもあって、学内での成績はあまり良くはないそうだ。本人の勉強に対するモチベーションも、あまり高そうには見えない。将来、具体的に何かやりたいことがあるというわけでもなさそうだ。

母親(=僕の妹)をはじめ、周囲の大人たちは、半ば腫れ物に触るようなおっかなびっくりさで、それでも姪っ子の進路を案じている。その気持もわからないではないけれど、僕個人は正直、彼女がどこの大学に行こうが、何の職業に就こうが、ある意味、どこでも何でもいいと思っている。そんなことは、後からいくらでも取り返しがきく。生きていて、状況が許すかぎり、勉強はいつでもどこでだってできるし、仕事も何度でも変えられる。

特に若い時、やり方としてよくないのは、難しいから、苦手だから、という消極的な理由だけで、消去法で選択肢を狭めていってしまうことだと思う。考え抜いて選ぶべきなのは、大学でも、職業でもない。自分はどういう生き方をしたいのか、ということだ。周りの大人が「あなたはこうすれば大丈夫だから」と選択肢をあてがってやるのでは、まるで意味がない。それだと、失敗した時に他人のせいにしてしまう。自分自身で選び取った生き方なら、失敗しても自分の責任だと思えるし、その失敗を何らかの糧にして再び立ち上がることもできる。

生き方を選べる境遇にいるのなら、選ぶべきだ、自分自身で。生き方を消去法の他人任せにしたら、きっと一生後悔する。

「希望のかなた」

アキ・カウリスマキ監督の新作「希望のかなた」は、前作「ル・アーヴルの靴みがき」から始まった「港町3部作」改め「難民3部作」の2作目。前作はアフリカから来た不法移民の少年だったが、今回は戦乱に揺れるシリアから逃れてきた青年、カーリドが主人公。ハンガリー国境で生き別れとなった妹を探すべく、言葉も何もわからないフィンランドで難民申請をして、悪戦苦闘するカーリド。そんな彼と偶然出会った人々、一人ひとりのささやかな善意が、彼の行く先を少しずつ照らしていく……。

「ル・アーヴルの靴みがき」には意図的に現実離れした結末が用意されていたが、「希望のかなた」にはそれとある意味対照的な、一筋縄ではいかない展開がセットされている。世の中には善意を持つ人々が大勢いるけれど、理解に苦しむ悪意を抱く人もわずかながら(あるいは少なからず)いる。時には、そんな悪意の刃が、取り返しのつかない事態を呼び寄せることもある。

カウリスマキ監督がこの作品で描こうとしたのは、ある意味、そうした現実の構造そのものだったのだろう。彼独特の台詞回しと間合いと場面描写とで作品自体がフィクショナライズされていることで、かえって今の世界の生々しさと不条理さが浮かび上がってきて、後を引く。

それでも僕は、この「希望のかなた」の結末は、ハッピー・エンドだと思えて仕方ないのだ。僕たち一人ひとりが、これからの世界をハッピー・エンドに向かわせる努力をしなければならない。本当の希望は、たぶんその先にあるのだろう。

本屋がなければ

昼のうちに今年最後の原稿を推敲して、写真データとともに納品。午後は部屋で音楽を聴きながら、ぱらぱらと本を読む。こういうの、ひさしぶりな気がする。

晩飯に作るカレーの材料と、明日の朝に食べる食パンを買うため、夕方、三鷹駅まで出かける。そういえば、と思って、駅ビルにある文教堂書店へ。年明けに閉店することになったと、Twitter経由で知ったので。行ってみると、店自体の雰囲気はさほど変わらないものの、あちこちに閉店を知らせる貼り紙がしてあって、何だかせつなくなった。

僕が三鷹で暮らすようになって、途中ラダック関係でブランクはあったものの、かれこれ十数年になる。その間に閉店が決まった本屋は、たしかこれで3軒目だ。この界隈に残る新刊書店は、南口のコラル内にある啓文堂書店と、北口から徒歩5分の場所にあるTSUTAYAくらいではないだろうか。

本が、雑誌が売れない。本屋が持ちこたえられずに閉店する。本の流通が減る。この悪循環は、もう止めようがないのかもしれない。それでも、街に本屋がなければ、やっぱり困る。僕らの暮らしの中から、何か決定的なものが欠けてしまうような気がする。だからといって、どうすればいいのか、僕にはわからないのだが。

本づくりを生業にする人間として、いろいろ考えさせられる、年の末。