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石塚元太良「氷河日記 プリンスウィリアムサウンド」

「氷河日記 プリンスウィリアムサウンド」以前、渋谷タワレコのブックショップをぶらついていた時、たまたま見かけて、手に取った本。後で知ったのだが、一年前に石川県で開催された写真展に合わせて刊行された、限定300部の本らしい。これも出会いなのだろう。

石塚元太良さんは、パイプラインや氷河など、特定のモチーフを追いかけて世界各地を旅して撮り続けている写真家だ。この「氷河日記」には、アラスカのプリンスウィリアムサウンドに点在する海岸氷河を、単身折りたたみ式カヤックで旅して撮影した時の模様が記録されている。同じようにしてカヤックでアラスカの氷河をめぐるなんてことは、たぶん僕には無理だから、とてもうらやましく思いながら読んだ。食料や装備の買い出し、野営の様子などは、すごく参考になった(何の?)。

読んでいて印象に残ったのは、「直接照りつける太陽光は氷河の撮影には要らない」という彼の言葉。晴天の下、太陽光で輝く氷河は確かにとても美しいだろうけれど、コントラストが強すぎて、大切な「青」が飛んでしまうのだという。曇天の方がそれをうまく捉えられるのだそうだ。そんな見方で雪や氷を眺めたことはなかったから、とても新鮮だったし、なるほどど頷かされた。

ゆらゆら揺れるカヤックで、大いなる自然の中に入っていく。その愉しさ。その心細さ。自分もいつか、何らかの形で、そういう気持を味わいたいと願う。

旅と写真とキャパと僕

昨日、横浜美術館で「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展を見て、思い出したこと。

世界でもっとも有名な報道写真家、ロバート・キャパ。僕にとって彼は、その短い生涯と作品を通じて、「写真家」という存在を意識するようになるきっかけを与えてくれた人だった。いや、それだけではない。僕の中で、「旅」と「写真」という二つの行為が分ちがたく結びつくきっかけを与えてくれたのも、キャパだった。

1992年の春、生まれて初めての海外一人旅。ザックの中には父が送ってきたありふれたコンパクトカメラと、何気なく買った文庫本が一冊。当時はたいして写真に興味のなかった自分が、なぜその一冊にキャパの「ちょっとピンぼけ」を選んだのか、今もよくわからない。神戸から上海まで船で渡り、シベリア鉄道でロシアを横断し、夜行列車を宿代わりにしながらヨーロッパをほっつき歩いた数カ月の間、何度もこの本を読み返した。祖国を追われ、危険な戦場に身を投じて写真を撮り続けた日々のことを、キャパはユーモアと優しさと、時に悲しみを交えながら書いていた。彼の文章を読んだ後に自分の目で見る未知の世界には、何かが透けて見えるような気がした。それが何かはわからなかったけれど、その「何か」に向けて、僕はシャッターを切った。

世界を自分の目で見るということ。それを写真という形で誰かに伝えること。いつのまにかその行為は、僕にとって、旅と切っても切り離せないものになった。もし、あの最初の旅に持って行ったのがキャパの本でなかったら、そんな風に考えるようにはならなかっただろうし、今のように写真を仕事の一部にするようにもならなかっただろう。そう思うと、キャパの「ちょっとピンぼけ」は、僕の人生に一番大きな影響を与えた本なのかもしれない。

半世紀以上も前に撮られたキャパとゲルダの写真を眺めながら、僕は、あの旅で感じた気持を思い起こしていた。

鎌倉・横浜日帰り旅

今朝はちょっと早起きして、電車に乗って鎌倉へ。小町通りで旅音さんとマンブリーズさんが開催中のスーベニア・ワンダーランドに顔を出す。チビオト君も元気そうで何より(笑)。並んでる商品もすごく魅力的なのだが、文字通り早い者勝ちなので、気になる人は早めに行った方がいいと思う。

おひるはひさびさにディモンシュで、ムケッカと深煎りマンデリン。夏葉社さんの「冬の本」をぱらぱらと読む。今日の店内は、四、五人連れの高校生のグループがやけに多くて、全員揃ってオムライスをぱくついていた。ブラックコーヒーのうまさがわかる年頃になったら、もう一度この店に来るといいんじゃないかな(笑)。

再び電車に乗って、今度は横浜へ。横浜美術館で開催中の写真展「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」を、たっぷり二時間近くかけて鑑賞。‥‥すごい。展示点数も構成内容も、まさに圧巻。横浜美術館の本気を見た。キャパについてはいろいろ思い入れがあるので、明日またあらためて書こうと思う。

あたりがすっかり暗くなった頃、電車でひと駅移動して、横浜中華街へ。どこかで晩飯を食べようと、まったくのノープランでぶらぶら歩き回る。結局、きらびやかすぎず、うらぶれすぎずという感じの店に入り、カニ肉あんかけチャーハンとエビ蒸し餃子、ビールを注文。ちゃんとおいしかった。というか、あれだけライバル店がひしめいてたら、中途半端な味だとやっていけないだろうし。

丸一日、ずいぶんな移動距離になったけど、いろんな人に会えたり、見たかったものを見たり、おいしいものを食べたりで、いい休日になった。満足。

好きなことをして食べていく?

この間の、西村さんと夏葉社の島田さんの公開授業で出ていた話題の一つについて。

授業を受けていた学生さんが、「自分がやりたいこと、好きなことに取り組んでいきたいけれど、それで食べていけるのかどうか不安になります。どうすればいいのでしょうか」という質問をした。確かに、美大の学生さんともなると、自分の作品づくりを生活の糧にできるかどうかというのは、重要な課題なのだろう。

それに対して西村さんは、「たとえばバイオリンを学んだ人が、普段は他の仕事をしながら、週に一度仲間内で集まって演奏をして、何年かに一度、どこかでコンサートを開く。そういう取り組み方もある。好きなことをするなら絶対にそれで食べていかなければダメだ、というわけではないと思う」と指摘した。確かに、それはその通りだ。

好きなことをすることと、それで食べていくということは、必ずしも結びつける必要はない。絵画や音楽、文学などの分野で素晴らしい才能を持ち、世間的にもきちんと評価されている人が、普段はまったく別のことをして生計を立てている例はいくらでもある。それで食べていけないからといって、好きなことへの取り組みをすべてあきらめてしまうのはもったいない。

ただ、意地でも自分の好きなことをして食べていく、という覚悟で取り組んでいる人には、退路を断った人ならではの気迫と集中力が宿るのも確かだと思う。勝ち負けの問題ではないけれど、他の仕事で生計を立てながら好きなことへの取り組みを続けるのは難しい面もある。結局大事なのは、それで食べていけるかどうかではなく、自分が好きなこと、やりたいと思ったことを、とことん最後までやりきれる覚悟を持てるかどうか、なのだろう。

僕自身、好きなことをして食べていけている状態と言えるかどうか、微妙なところだと思う。ライターや編集者としての仕事全般では、まあ、かつかつ。自分が好きな旅にまつわる仕事に限ると、まだまだ。でも、自分がやってみたいこと、好きなことに取り組むには、今のフリーランスの状況に身を置いておくのが一番やりやすいし、実現の可能性が高い。だから僕は、これからもやせ我慢を続ける。

好きなことをして、それで食べていく。楽なわけないよね。

才能と職能

「一人で、書いて、撮って、編集して、一冊の本を作れるというのは、あなたの才能ですよ」という意味のことを、最近、何人かの人から言われた。

たぶん、僕の場合、持ち合わせているのは「才能」ではない。本づくりの仕事に携わるようになってから、必要に応じて身につけてきた「職能」だ。それは、そこそこの水準には達しているかもしれないけれど、個々の分野で燦然と輝きを放つトップクラスの「才能」には追いつけない、という限界も感じている。自分の「職能」の限界は、ずいぶん前から、自分でもびっくりするくらい素直に認めている。

ただ、個々の分野で煌めく「才能」を持っている人たちが、それを世の中に向けてうまく発揮することができずに、道半ばであきらめていくのも、僕は何度も見てきた。彼らには、いったい何が欠けていたのだろう。ほんのちょっとした巡り合わせか、運か‥‥。あるいは、いてもたってもいられないほどの、何かを「伝えたい」という思いか。

今までも、これからも、僕は地べたを這いずるように、じりじりと前に進んでいこうと思う。目指す先に「伝えたい」と思えるものがあると信じて。