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プロの書き手であり続けるための二つの基準

僕は30歳を過ぎた頃にフリーランスとして本格的に独り立ちして、編集者兼ライターとして、いくつかの雑誌で仕事をするようになった。未熟ながらもどうにかこうにか生活できていたのは、すこぶる優秀とまでいかなくても、各編集部からの要求を満たす結果をそれなりに出し続けていたからだと思う。クライアントが求めるものに可能な限り近い成果を上げるためのスキル。それを持っていることは、プロの書き手として最低限の基準だった。

でも、そうしてクライアントからの要求に応えるための仕事を何年か続けていくうちに、このままでいいのか、という気持が胸の奥で芽生えた。自分が本当に心の底から作りたいと思える一冊は、まだ作れていないのではないか。そこから僕は、なぜか日本の仕事を全部ほっぽり出してラダックくんだりまで行って本を書く、という素っ頓狂な道を選んでしまったのだが(苦笑)、今考えるとそれは、当時の自分にはまだ欠けていた、プロの書き手に求められるもう一つの基準を満たすための模索だったのかもしれない。

クライアントが求めるものに応えられるスキルを持っているのは、プロとしての最低基準。その上でクリアすべきもう一つの基準は……自分が書きたいと思えることを自分らしい形で書き、なおかつそれを周囲からも認められる仕事として成立させられるだけのスキルを持っているかどうか。そのスキルには文章力のほかに、企画力や交渉力、苦境にもへこたれない意志の強さなども含まれる。これは書き手だけでなく、写真家やイラストレーターなど他の分野でのフリーランサーにも通じる話だと思うし、それらの分野におけるアマチュアの方々との決定的な違いにもなると思う。

僕自身、自分のやりたいことだけ好きに書いたり撮ったりして生活しているわけではなく、生活費の大半はクライアントから依頼された仕事でまかなっているのだが、自分の仕事の芯となる部分に自前の企画で個性を発揮できる仕事を持ち続けることは、他のクライアントとの仕事にも好影響をもたらすし、いい形で新しい仕事につながっていくきっかけにもなる。

クライアントの要求に応えるためのスキルと、自分のやりたいことを仕事としても成立させるためのスキル。僕自身まだまだ未熟だけれど、これからもプロの書き手、そして写真家であり続けるために、二つのスキルを磨き続けていこうと思う。

憧れた旅

終日、部屋で仕事。一昨日リアルタイムでは聴けなかった、沢木耕太郎さんの年に一度のラジオ番組「MIDNIGHT EXPRESS 天涯へ 2016」を聴きながら作業をする。

今年の沢木さんの話は、ひときわ面白かった。ついこの間まで沢木さんが出かけていた東南アジアの旅の話を、とても軽快に、楽しそうに話されていたからだと思う。サイゴンやアンコール・ワット、シーパンドンの話を聴きながら、僕はぼんやりと、あることについて考えていた。

僕が沢木さんの「深夜特急」を初めて読んだのは、大学生の頃。まだ一歩も日本から踏み出したことのなかった僕は、本を読んで、驚き、あきれ、そして憧れた。その後しばらくして大学を自主休学し、シベリア鉄道でロシアを抜けてヨーロッパを目指す旅をしたのも、その旅の体験を文章で書こうとしたのも、間違いなく沢木さんの旅への憧れからだったし、僕なりの模倣だったと思う。

それから大学を卒業し、書くことを生業にしようとあがき続け、時にまた旅に出て、といったことをくりかえしているうちに……いつのまにか僕は、ほかの誰の旅にも似ていない、僕の旅としか言いようのない旅をするようになっていた。誰にも似ていない文章を書くようになり、写真まで自分で撮るようになった。僕の旅そのものが、僕の仕事の一部になった。

実績の面では、沢木さんの足元にもはるかに及ばないし、今後も追いつくことはまずありえない。でも、沢木さんが今も沢木さんらしい旅を続けてらっしゃるように、僕も僕なりの旅を続けていけたら、とは思う。僕の旅から生まれた文章と写真の評価は、読者の方々に委ねるしかないけれど、もし、僕の本を読んで「自分も旅をしてみようかな」と思ってくれる人がほんの少しでもいてくれたとしたら、こんな嬉しいことはない。

そのための戦いは、これからも、ずっと続いていく。

愚直な一撃

文章がうまい、写真がうまい、というのは、ボクシングにたとえると、軽快なフットワークで動き回りながら、華麗なコンビネーション・ブローをヒットさせていく、というスタイルに似ている気がする。プロとしてやっていくには、そういううまさ、器用さは、確かに必要なのだと思う。

その一方で、人の心をぐっと揺さぶる文章や写真は、ガードを固めて我慢しながらじりじり近づいて、ここぞというタイミングで繰り出す、渾身の一撃に似ている。不器用で愚直な一撃。たった数行の言葉、たった一枚の写真。だからこそ、届けられるものもある。

仕事で文章や写真に携わっていると、どうしても、うまいことやって綺麗に仕上げてしまおうと本能的に考えてしまいがちなのだが、時には愚直な一撃の大切さも、思い出してやっていかねば、と思う。

仕事のスイッチ

ふと気がつくと、自分自身が楽しむという目的のために、文章を書いたり、写真を撮ったりすることは、とんとなくなってしまったな、と思う。

ストラップを首にかけてカメラのグリップを握れば、それだけで自分の中で仕事のスイッチがぱちんと入る。ICレコーダーをオンにする時、紙のノートにペンを走らせる時、仕事机でキーボードを叩く時。文章も写真も、僕にとっては仕事に必要な作業という位置づけになってしまった。

でも、それはそれでいいのかもしれない、とも思う。そうして仕事のスイッチがぱちんと入っている時は、大変な時もあるけれど、何だかんだで楽しいから。仕事を楽しめているのなら、それが一番いいのかなと思う。

来年もいろんな仕事をすることになると思うけど、気持よく楽しめる仕事になるべく多く当たりますように。

孤独の意味

「誰もいない原野の真っ只中で、たった一人でいることが、嬉しくて、嬉しくて、仕方なかった」

20年以上前、ある人が、ある人と、ある人について話した言葉。当時、それを耳にした僕は、その意味がまったく理解できなかった。でも、今はたぶん、ほんの少しだけ、その真の意味が理解できるような気がしている。

危険をかえりみずに冒険をしたことを後で人に自慢しようとか、そんな薄っぺらい気持では断じてない。他の人間と関わるのが嫌で一人になりたかったというのとも違う。たった一人で、誰もいない原野にいる。でも、つらくはないし、寂しくもない。完全な孤独の中に身を置くからこそ、理解できる感覚。世界のすべての存在の中で、自分はそのほんの一部分に過ぎないということ。

あの感覚を、人に説明するのは、とても難しい。