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協調性がない

今さらと言っては何だが、僕には、協調性がない。

子供の頃から、誰かと一緒に何かをする団体行動は苦手だった。特に、明らかに信頼できない人が上の立場にいて、トンチンカンなことを強いられそうになると、あからさまに抵抗した。社会に出ても、そういう性分は変わらなかった。それでよく雑誌の編集者が務まったなと言われるが(苦笑)、編集者はまず自分の担当ページをきっちり守ることを優先するから、他の編集者との軋轢はさほど生じなかったのだ。‥‥まあ、それでも軋轢が生じた人もいたけど(笑)。

だから、フリーのライター&編集&たまにフォトグラファーという今の働き方は、心の狭い自分にすごく合っているなあと思う(笑)。クライアントにトンチンカンなことを強いられそうになったら、断ればいいだけ。収入は減るけど、心はすり減らない。自分自身が必死こいて働いた分だけしかお金が入ってこないというのも、ある意味、真っ当ですっきりしてるので、気に入っている。

この先も、大金持ちにはなれそうにないけど、ま、仕方ないか。協調性がないんだし(笑)。

淀まず、あわてず、後戻りせず

二十代の初めの頃、色川武大の「うらおもて人生録」という本を読んだ。かつては筋金入りの博打打ちとして幾多の修羅場をくぐってきた彼は、カタギになるために小さな出版社で働きはじめた頃、自らに三つの約束事を課した。

一つめは、一カ所で淀まないということ。いいところならともかく、悪い条件のところは、自分の生きたいように生かしてくれない。少しでも自分らしく生きるために、一つのところに満足したりあきらめたりしないようにする。

二つめは、階段は一歩ずつ、あわてずに昇るということ。その時の自分の実力に合わせて、決して先を急がない。焦って二、三段駆け上がると、転んだり落っこちたりする。いいところに行きたいなら、そのための力をつける。

三つめは、でも決して後戻りはしないということ。一度昇った場所でやったことに対しては、きちんと責任を持つ。きついからといって楽な方に安易に逃げない。

僕は色川さんのように冷静な勝負眼を持ち合わせているわけではなく、かなり、いや相当に行き当たりばったりな人生を過ごしてきた。でも、自分の職歴について振り返ってみると、結果的に「淀まず、あわてず、後戻りせず」というセオリーを踏み外すことなくやってこれたのかなという気がしている。もし、最初から運よく大手出版社に入っていたとしても経験と実力不足で脱落していただろうし、一時期関わっていた雑誌の編集部にあれ以上依存し続けていたら、その分野のネタしか扱えない井の中の蛙になっていただろう。後戻りしないというのは、今まさにやせ我慢してる真っ最中だが(笑)。

ただ、ラダックの本を書こうと思い立って、それまでの仕事を全部チャラにして日本を飛び出した時は、正直、人生最大の大博打だったなと思う。「この本をものにできなかったら、俺は物書きを廃業する」と本気で思い詰めていたから。結果的にうまくいったからよかったが‥‥(汗)。でも、長い人生の中では、時には大勝負をしなければならない時もあるのかもしれない。

色川さんの「うらおもて人生録」は、他にも含蓄のある言葉が詰まった名著なので、人生に迷っている方は一度読んでみたらいいんじゃないかなと思う。

「秒速5センチメートル」

秒速5センチメートル。それは、桜の花びらが舞い落ちる速度なのだという。

Apple TVで、新海誠監督の「秒速5センチメートル」を借りて観た。「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」という連作短編アニメーション。幼い頃に知り合って心惹かれていた二人が、離ればなれになり、やがて大人になっていく。渡せなかった手紙。言えなかった言葉。いつか辿り着けると信じていた場所。二人の間を通り過ぎていく時間が、優しく、そして残酷に描かれている。

この作品では、わかりやすいカタルシスを味わえるような出来事は、何も起こらない。ただただ、届かなかった想いを抱えて生きていくことの苦しさとせつなさが、これでもかというほど美しい映像(特に第三話のラストに連なるパートの加速感!)に重ね合わされて映し出される。それでも彼らの、僕らの人生は続いていく。その先には、桜の舞い散る道が続いている。

‥‥余談だが、主人公の名前の読みが僕の名前と同じなので、観ている間、ずいぶん気恥ずかしい思いをした(笑)。

幸せな仕事のあり方

午前中、新宿で取材。明日はまた早朝から、新幹線で静岡に移動しての取材。こういう形での三連チャンは、かなりきつい。まあ、やるしかないか。

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昨日あたりから、「フリーランスになって半年経ってこの世で一人ぼっちになったことに気付いて究極に失敗した」という内容のブログ記事とそれに対する反応が、ネット上を駆け巡っている。それらについて思うことをつらつらと。

僕は完全にフリーランスになってから十年くらい経つが、失敗したと思ったことは一度もない。収入が不安定なのは問題だが(苦笑)、自分がやりたいと思える仕事を選んで取り組めるのは、フリーランスならでは。やりたくない仕事をやらなくていいほど、精神衛生上好ましいことはない。今の仕事の形は、自分に一番合っていると思う。

思うに、先のブログ記事の人が悩んでいるのは、自分の仕事が誰かの役に立っているのかどうか、そこに意味があるのかどうか、実感が持てないでいることも原因かなと思う(相手の顔が見えにくいWeb関連の仕事では特にありがち)。自分の生活を維持するためだけに仕事をしていると、時に、そこに意味を見出すのが難しくなる。でも、幸せな仕事とは、誰かのために何かをしてあげた時、その対価とともに「気持」を受け取れる仕事ではないだろうか。

僕自身、雑誌から依頼された仕事が中心だった頃は、そういう「気持」のやりとりを実感できずにいた。でも、自分のすべてを賭して「ラダックの風息」を書いた時、メールや手紙などを通じて、たくさんの読者の方々からの「気持」を受け取ることができた。自分は、読者の方々のために本を作っている。その手応えを本当の意味で感じられたのは、あの本の仕事が初めてだった。

お金や自己満足のためでなく、誰かのために何かをしてあげて、時にはお金以上の「気持」をやりとりできる仕事。別にクリエイティブワークでなくても、そういう幸せな仕事のあり方は見つけられるはずだ。フリーランスがどうとか言う前に、まずはそこから考えてみるべきだと思う。

プロになるということ

先月中旬、あるフォトグラファーの方にインタビューした時、印象に残っている言葉がある。

「プロのフォトグラファーになりたいと思っている若い人は大勢いますが、実際にプロになる人は、ごくわずかですよね。写真の仕事だけで生活できるかどうかわからないから、みんな尻込みしている。そういう人に、僕はよく言うんです。自分が本当にプロになりたいかどうか、真剣に考えろ。本気でなろうと思えば、何にでもなれる。でも、『なれるものならプロになりたい』と思う程度だったらやめておけ、と」

まったくその通りだなと思うし、フォトグラファーに限らず、ライターにも、編集者にも、ほかのあらゆる職業にも通じる話だと思う。実際、なろうと思えば、僕たちは何にでもなれる。その上で必要なのは、自分が選んだ道で生き抜いていく覚悟。どんなに打ちのめされても、折れない心。たとえ先が見えなくても、前に踏み出す勇気。

それが、何者かになるということ。プロになるということなのだと思う。