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ラダックから学ぶ?

午後、茗荷谷にあるジュレーラダックの事務所へ。3月24日(土)に開催されるトークイベントにゲスト出演することになったので、その打ち合わせ。

イベントのテーマは「ポスト3.11 持続可能な社会とは?ラダックから学ぶ」というもの。僕はラダックをある程度見続けてきた日本人としての立場で、写真を交えながらラダックの話をすることになった。

今回のように、日本でのラダック絡みのイベントや書籍では、「ラダックから学ぶ」といった感じの言葉がよく使われる。それは大いに結構なのだが、時々ほかの場所では、そもそもラダックとはどういう場所で、どういう人々が暮らしているのかをろくに把握しようとしないまま、ごく一部の事象だけを拾い上げて性急にラダックを論じている人を見かける。そのたびに、僕は違和感を覚えずにはいられない。「学ぶ」前にまず、ラダックそのものを「知る、知ろうとする」ことが大事だろう、と。

ラダックの良い部分と悪い部分をフラットな目線で捉えて、ラダックの人々の心の部分——苛酷な環境で生き抜く少数民族ゆえの絆の強さ、チベット仏教に根ざした精神性など——も踏まえて、いろんな角度から考えてみるべきだと僕は思う。異国を理解するというのは、そういうことではないだろうか。そのプロセスを端折って、都合よさげな部分だけつまみ食いするように「学んで」も、それは本質からズレているし、そのまま日本で活かせるとも思えない。

イベントで僕が伝えたいと思っていることの一部は、そんなところかな。

奥華子「good-bye」

奥華子のメジャー通算六枚目のアルバム、「good-bye」。このアルバムは本来なら、去年の秋くらいには出ているはずのものだったと思う。先行シングルの「シンデレラ」は、去年の六月に発売される予定だったが、半年以上延期された。その原因には、東日本大震災がある。

震災後、彼女はそれまで予定されていたリリースプランを変更し、被災地を支援するための活動に奔走した。「君の笑顔 -Smile selection-」というコンセプトアルバムを作り、全国各地でフリーライブを開催して支援金を募り、被災地にも何度も足を運んで、歌った。そんな中でも、たぶん、彼女は痛いほど感じていたと思う。想像を絶する現実と悲しみの前で、自分たちがどれほど無力なのかということを。

去年、彼女は南三陸町の避難所で出会った女性から、「頑張ろうとか、応援歌とかではなく、行き場のない思いに寄り添った曲を作ってほしい」というメールを受け取った。「頑張れと言われても、頑張りたくても、なかなか頑張れないんです」と。自分が経験したのではないあの悲劇について、何が歌えるのだろう。でも、その思いを教えてもらって歌にすることはできるかもしれない。そうしてメールのやりとりを重ねた中で生まれたのが「悲しみだけで生きないで」という曲だった。

本当に大きな悲しみの前では、どんな慰めも、励ましも、何の役にも立たない。その無力さも、やりきれなさも、いたたまれなさも、何もかも抱え込んだ上で、彼女は声を絞り出して歌う。「それでも生きて」と。

一人ひとりが、それぞれにできることをしながら、毎日を精一杯生きていくしかない。そうすれば、何かが、誰かに届く。明日に繋がっていく。彼女はきっと、そう伝えたかったのだと思う。

誰かのために

以前、社会で働きはじめたばかりの人や、これから社会に出ようとしている人たちと話をしていた時、「仕事って、何ですか?」という質問をされて、こう答えたことがある。

「誰かのために働く、ってことじゃないですかね」

すると、「いや、仕事というのは自分のためにするものでしょう!」という反応が返ってきた。確かに、それは間違っていない。自分がやりたいこと、大切にしていることを仕事に選ぶのは、とてもいいことだと思う。

でも、その「自分がやりたい仕事」が、「自分のため」だけで終わってしまったとしたら、もったいないな、と思う。その仕事の先に「誰か」がいて、自分が生み出したり成し遂げたりしたことを受け取ってくれるかどうかで、仕事の価値はまったく変わってくる。誰かのために何かをしてあげて、対価とともにささやかな感謝の気持を受け取る。人間の世界の仕事は、結局、そのシンプルなやりとりに尽きる。

そう考えると、誰かのために働ける仕事は、世の中にとてもたくさんあることに気付く。むしろ、世間的に華やかで報酬の割がいい商売ほど、往々にして、それが誰のためになっているのかはっきりしないことがある。また、その仕事によって、たとえほんのわずかでも、誰かが傷ついたり踏みにじられたりするのであれば、何の価値もないと思う。

誰かのために。そうでなければ、意味がない。

夏葉社「さよならのあとで」

死は、誰のもとにも平等に訪れる。死からは誰も逃れられないし、愛する人を失う悲しみからも、誰も逃れられない。誰よりも大切な存在だった人でさえ、時に唐突に、理不尽な形で失われていく。

さよならのあとで」は、英国の神学者で哲学者でもあった、ヘンリー・スコット・ホランドの「Death is nothing at all」という詩の本だ。詩集ではなく、この本には、ただ一編の詩しか収録されていない。四十二行の詩と、挿絵と、あとがき。ただそれだけなのに、ページをめくるたび、こんなにも胸を突き動かされるのはなぜだろう。何も印刷されていない、真っ白なページでさえ。この本でしか伝えられない、この本にしか届けられない思いが、一文字一文字ににじんで見える。

この詩は、唐突に立ち去ってしまった大切な人から届けられた言葉なのだと思う。私のことは何気なく心の隅にピンで留めて、これからも続いていく日常を精一杯生きてほしい。私はすぐそこで待っているから、と。僕にとって、それは父の言葉だった。

この「さよならのあとで」を編んだ夏葉社の島田潤一郎さんは、吉祥寺でたった一人で出版社を営んでいる方だ。三年前に会社を立ち上げる前、島田さんは親友でもあった従兄の方を交通事故で亡くした。その時からずっと、島田さんはこの本を作り続けてきたのだという。この本を出すために出版社を始めたといっていいほどの、ありったけの思いを込めて。これは、とても個人的な思いで作られた本だ。でも僕は、そういう個人的な思いを核に作られた本だけが、人の心を突き動かす力を持ち、ずっと読み継がれていくのだと思う。

大切な人を失った人のもとへ、この本が届きますように。

失くしてから気付くこと

朝、温かい布団の中でうとうとしていた時、夢を見た。どこかの台所で、実家の人間たちと食卓を囲んでいる夢。母がいて、妹とその家族がいて、そして父がいる。たぶん、ハヤシライスか何か食べていたのかな。

少し前までは、当たり前だと思っていた光景。でも今は、それがどれだけかけがえのない時間だったか、わかるような気がする。

たぶんそれは、家族との関係に限ったことではないのだろう。友達や仕事仲間と一緒に過ごす時間は、何でもないようであっても、実はとても大切なものなのだと思う。今頃気付くなんて、バカなんじゃねーの、ってことだが。

失くしてから気付くことは、実はとても多い。