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小代焼のマグカップ


しばらく前から、マグカップを買おうと思って、どこかに良いものがないかと、ずっと探していた。

僕は毎朝、仕事を始める前にコーヒーをたっぷりいれ、仕事机でパソコンの脇に置いて、飲みながら作業に取りかかるのをルーティンにしている。その時、コーヒーを飲むのに使っていた自分用のマグカップは2つほどあって(イッタラのオリゴのマグと、バーズワーズのパターンドカップ)、どちらも10年くらい愛用してきたのだが、もう一つ、把手つきで良い感じのカップがあるといいな、とも思っていた。

研ぎ澄まされた北欧デザインの食器も、米国のダイナーで使われていたファイヤーキングのような無骨な大量生産品も、それぞれに良さがあると思うのだが、今回は日本の焼き物で何か良いマグカップはないかと探していた。手作りで、焼き上がりによって表情が一つひとつ異なるようなもの。ただ、そういう品はそもそも生産量が少ないので、ネットショップでよさそうな品を見つけてもすでに完売していたりと、なかなか良い出会いがなかった。

でも、ついこの間、見つけたのだ。これだ、というのを。

奥村忍さんが運営する「みんげい おくむら」を何気なくブラウズしていた時に目にしたのは、熊本県の小代焼ふもと窯のマグカップ。サイズ的に自分にちょうどいい塩梅で、把手もゆとりのある持ちやすそうな形。鷹揚な感じでかかっている青白い釉薬の表情もいい。値段もそこまで高くないし。

注文して、ほどなく届いた品を手に取って、ますます気に入った。しっくり手になじむし、実際にコーヒーを注いでみると、内側の白い釉薬の部分と黒いコーヒーのコントラストが、とても良い佇まいになる。おかげで、毎朝コーヒーをいれて飲むルーティンが、ますます楽しみになった。

日々の暮らしの中で何気なく使っている器や道具に、長く愛着の持てる、きちんと良いものを選ぶと、それだけ心にゆとりが持てるような気がする。このマグカップも、大事に、楽しみに使っていこうと思う。

本を読むのが遅い

本を書くことを生業にしている割に、僕は本を読むのが遅い。本自体のボリュームや、その時々の忙しさにもよるが、だいたい、月に2冊くらいのペースだと思う。

基本的には、斜め読みでの速読はあまりしたくないたちで、文体が自分の感覚に合う本は、1行1行、じっくり味わって読みたいと思っている。だから、読むのが遅いこと自体は特に気にしてないのだが、問題は、本を読む速度よりも、本を買う速度の方が全然速いことだ(苦笑)。何冊買っただろう、今年だけで……。部屋のあっちこっちの隙間に分散して収納しようとしても、残り少ないスペースは、未読の本たちによって刻々と埋まっていく。読んであげなきゃなあ、と思い続けてはいるのだが、追いつかない……。

というわけで、来年はまず、積ん読を少しでも減らすことを目標にしようと思う。まあ、読み終えたからといって、収納スペースが空くわけではないのだけれど。

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ナン・シェパード『いきている山』読了。スコットランド北部のケアンゴーム山群での山歩きをこよなく愛した著者が、岩や水や光から、植物、動物、人間に至るまで、山という存在そのものを構成する要素を一つひとつ、深い思索とともに解きほぐし、仔細に描き出していく。膨大な量の注釈が添えられていることからわかるように、けっして読みやすい本ではないが、きっと、再読すればするほど味わい深くなる本なのだと思う。

この本が書かれたのは第二次世界大戦の終わり頃で、それから一冊の本の形でひっそりと出版されるまで、30年もの月日がかかった。そして、ナン・シェパード自身が亡くなってからさらに30年ほど経ってから、ネイチャーライティングの知られざる名作として脚光を浴びるようになり、世界中で広く読まれるようになった。本という存在は時として、こんな風に思いもよらない形で、世界に対して答えを示すことがある。

ぶち破っていくだけだ

フリーランスの立場で、物を書いたり、写真を撮ったり、本を作ったりする仕事をしていると、理不尽な理由で悔しい思いをさせられることが、しょっちゅうある。それは、年齢や経験をある程度重ねていってもあまり変わらなくて、むしろ、それらを重ねてきたからこその悔しさを味わう羽目になることも、よくある。

ついこの間も、ちょっとそういう思いをした。まあ、あれはどちらかというと、相手がいきなり全部おっぽり出して、尻尾を巻いて逃げてった、という感じだったけど。

そういう悔しさを晴らすには、僕の場合、自分の信念をけっして曲げずに、どうにか壁を突き抜けて、最善の努力を尽くしながら、一冊の本という形に結実させるしかないのだと思う。そうして完成させた本で、自分の信念が間違っていなかったことを証明するしかないのだと。

ふりかえってみれば、今までも、ずっとそうだったような気がする。「ダメだ」「無理だ」「難しい」と、わかってもいない人たちによって勝手に作られた壁を、一冊、一冊、自分自身で本を作って、自分の信念を自分自身で証明しながら、ぶち破ってきたんだった。

だから、次の壁もまた、ぶち破っていくだけだ。

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藤本和子『イリノイ近景遠景』読了。リチャード・ブローティガンの作品などの翻訳の名手として知られる著者の米国での生活の中から生まれたエッセイと、主にマイノリティの市井の人々へのインタビューを束ねた一冊。軽やかなタッチのエッセイで始まるが、章を追うにつれ、次第に重いテーマへと移っていく。一冊の本としてのまとまり感はやや乏しいが、文章はさすがの切れ味で、インタビューの手法や構成にも学ぶべきところが多かった。

新海誠監督「すずめの戸締まり」鑑賞。前作には正直、物語にいささか無理筋なところを感じたのだが、この作品はシンプルで、まっすぐに突き進んでいく王道のファンタジーだった。思いのほかロードムービー要素が強かったのも、個人的には楽しめた。震災をテーマにしたアニメーション映画を、これだけの公開規模の作品で作るのは、いろいろな意味での勇気と覚悟が必要だったと思う。その点においても敬意を表したい。

ほんのつかの間

今週は、ほんのつかの間ではあるけれど、ちょっとひと息つけそうな状況になった。

八月下旬にインドから帰国して以来、九月は新刊『旅は旨くて、時々苦い』の発売に合わせてのトークイベントやラジオ出演が立て続けにあった。加えて、よみうりカルチャーでのラダック講座も担当していたし、BE-PALのサイトでの短期連載の準備や、まだ表に出せない仕事も色々入っていて……本当に休む暇がなかった。特に、人前に出る類の仕事がいつになくたくさんあったので、絶対にコロナに罹患できない、罹ってしまったらその後の予定が全部吹っ飛んで、関係者の方々に大迷惑をかけてしまう……というプレッシャーがきつかった。

そんなこんなのあれこれもどうにか切り抜け、先週の原稿執筆ぼっち合宿が功を奏して、一番大変だった原稿もどうにか提出できるメドがついた。来週半ばの打ち合わせの後からは、また次の本の作業に着手せねばだけど。とりあえず、ひと息つける時はしっかり休んでおこうと思う。それが、ほんのつかの間だとしても。

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牟田都子『文にあたる』読了。穏やかな言葉で綴られているけれど、「気骨」のある本だなと感じた。牟田さんの(そして世の校正者の方々の)仕事に対する真摯さに接して、本づくりに携わる者の一人として、あらためて身の引き締まる思いがした。僕自身、執筆だけでなく、雑誌や書籍の編集もしていたので、この本を読み進めるうち、過去に自分がやらかしたあれやこれやがフラッシュバックしてきて、時々胃のあたりが重くなった(苦笑)。同じような思いをした同業の方々、きっと多いはず……。

カタギでない世界

昼、行きつけの理髪店で、二カ月ぶりの散髪。バリカンで、6mmの短さで刈り上げてもらう。まだまだ暑いし。

このお店には、もう思い出せないくらい昔から通っていて(たぶん十五年か、それ以上)、店主さんやスタッフさんともすっかり顔馴染みだ(僕の素性もだいたいバレている)。それもあってか、僕が散髪に訪れると、店主さんはほかのお客さんにはあまりしてなさそうな、いろんな話をしてくれる。彼自身はカタギの理容師だが、どういうわけか、カタギでない人々と非常に幅広い交友関係を持っているそうで、ぶっちゃけ、ここには書けないような話ばかりしてくれる。今日の話も、聞いている分には興味深かったけど、あまりにもきわどすぎて、ここにはとても書けない(苦笑)。

世界は、僕が思っているより遥かに広いのだなあ、と散髪に行くたびに思い知らされるのであった。

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川内有緒『空をゆく巨人』読了。インド取材の初日、デリー空港の乗り継ぎ待ちで読み始めたら止まらなくなり、レーに着く前に読み終わってしまった。志賀忠重さんと蔡國強さん、そして二人を取り巻く人々の生き様と、我々自身とも深く関わってくる未来に向けての熱い物語。

カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』読了。ザンスカールで橋が壊れて、パドゥムで足止めを食った時に読んだ。有名な作品なので期待してたのだが、自分には「人を食ってる度」が強過ぎたというか、登場人物の誰にも感情移入できなくて、読んでてちょっとしんどかった……。上手いのはわかるのだが。