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胡桃の味

今日も雨。まだ五月だというのに、早くも台風が接近しているらしい。

家に閉じこもっているのも癪だし、かといって、雨の中を遠出したくもない。がっつり酒を飲む気分でもない‥‥。というわけで、晩飯は東小金井のインド富士へ。初夏にふさわしく、カツオのカレーがラインナップ。何とも言えない甘味があって、素晴らしく美味。ビールと一緒に注文したホタルイカのマリネともども、おいしくいただいた。

その後、西国分寺のクルミドコーヒーへ。レアチーズケーキにはちみつレモンをかけ、深々煎りコーヒーとともにいただく。あまりにうまくて、コーヒーをおかわりしてしまった。

クルミドコーヒーでは、テーブルの上に胡桃と胡桃割りが置いてあって、お客さんが好きなだけ自分で割って食べることができる。試しに一つ、二つ割って、ぽりぽり食べてみる。懐かしい味。ラダックのダーにいた時、村の少年が僕にくれた、あの胡桃の味。

誘惑の到来

ここ数日寝不足だったせいか、昨日の夜は思いっきり爆睡してしまい、起きたら昼過ぎ。いささか焦る‥‥。

デリーで某マスメディアの仕事をしている知人から、夏にラダックで取材をするかもしれないという相談のメールが届く。今年の夏は、思っていた以上に友人・知人がラダックに集結することになりそうだ。みんなとのんびり遊びたいところだが、今回は取材でぎっちぎちなので、そういうわけにもいかない。

午後、アップルストアに注文していたiPad 2が届く。予定より二日ほど早い。とりあえず基本的なセットアップをしただけなのだが、動作はきびきびしてるし、なかなか魅力的なガジェット。もう少しアプリを追加して使ってみてから、このブログでもレビューを書いてみようと思う。

そんなこんなで、今日は全然仕事がはかどらなかった(汗)。これから、もうちょっと進めてみる。

二つの居場所

朝から代々木公園へ。アースデイ東京に出展しているジュレーラダックのブースで物販を手伝う。何人ものお客さんに声をかけていただいて、ありがたいかぎり。まったく初対面の人なのに、相手は自分のことをかなりいろいろ知っているという状況には、いつまで経っても慣れないのだが(苦笑)。

お客さんの一人に、こんなことを訊かれた。

「そんなにラダックのことが好きになった後に日本に帰ってきて、嫌になってしまったりしませんでしたか?」

正直言って、全然嫌になったりしなかった。

ラダックと日本の間を行き来しはじめた頃は、何から何まで違う二つの社会のギャップに戸惑ったりもしたのだが、時間が過ぎ、ラダックのことを知れば知るほど、日本のよさも改めて感じるようになった。どちらの社会にも、いい面もあれば、悪い面もある。見境のないグローバリゼーションはもちろん支持したくはないが、さりとて懐古主義的なローカリゼーションを安易に盲信するつもりもない。要は、バランスの問題なのだと思う。

ラダックのシンプルな社会では、人と人とを互いに結びつける強い絆が、とてもわかりやすい形で存在する。でも、そうした絆は、日本にも、世界のどこにでも、何らかの形で必ず存在しているのだ。どこの国だとか、そんなことは関係ない。その絆を、大切にできる人間になれるかどうか。自分はまだまだだと思う(本当に未熟者だ‥‥)けど、少しでも納得のいく生き方をできるようになれたら、と思う。

ラダックも、日本も、どちらも僕にとっての居場所。

風の旅行社「風通信」No.42

風の旅行社が年に三回刊行している無料の情報誌「風通信」に、「もうひとつの居場所、ラダック」と題した4ページのフォトエッセイを寄稿しました。表紙の写真と目次の写真も提供しています。エッセイは完全書き下ろし。写真は「ラダックの風息」に掲載していないものを中心に選んでいます。

風通信」は、お問い合わせ用メールフォーム、または電話(東京0120-987-553、大阪0120-987-803)で風の旅行社に申し込むと、無料で送ってもらえるそうです。数に限りがあるそうなので、お早めにどうぞ。発送開始時期は、4月22日(金)頃の予定です。

ペン先の小さな神様

物書きという仕事に携わるようになって以来、長短合わせて、それなりにたくさんの文章を書いてきた。納得のいく出来の文章もあれば、いろいろな理由で悔いの残る文章もある。でも、本当の意味で自分の中にあるすべての力——記憶とか感情とか、何もかも含めて——を出し切ったと思えたのは、「ラダックの風息」を書いた時だったと思う。

あの本の草稿は、2008年の春から秋までの半年間をかけて書き上げた。当時はまだラダックでの現地取材を続けていたから、草稿の大半を書いたのもラダック。自分のパソコンは持って行かなかったので、取材の合間を縫って、小さな紙のノートに端から端までびっしりと、ページが真っ黒になるまでひたすら書き続けた。

あの文章を書いていた時の感覚は、僕がそれまで経験したことのないものだった。馴染みのカフェの席に坐り、ノートを広げ、ペンを握り、ページを見つめる。すると、周囲の視界が急に狭くなって、物音も小さくなる。頭の内側がじーんと痺れたようになり、ペンを持つ手が知らぬ間に動き、文字を書き連ねていく。まるで、ペン先に米粒大ほどの小さな神様が坐っていて、次はああ書け、こう書け、と指図しているかのように。

ラダックの風息」を書き上げた後、ペン先に小さな神様がちょこんと降りてきたことは、一度もなかった。どこがどう違うのか、僕自身にもわからない。でも、つい最近になって「もしかすると、あの神様が降りてくるかもしれない」と思える題材が見つかったような気がしている。まだどうなるか自分でもわからないけれど、また、あの時のような感覚で文章が書けるかもしれない。

大切だと思えること。伝えたいこと。それを、一心不乱に書く。