Tag: Japan

死を思う

午後、八丁堀で打ち合わせ。2時間ほどみっちり話し込む。早めの晩飯にビリヤニを食べ、東京駅から中央線に乗って、帰路につく。

電車が三鷹駅にすべりこんで、さて降りるか……と思ったら、ドアが開かない。乗っていた電車の先頭で人身事故が起こったとのアナウンス。それから15分ほど、車内で待つことになった。こういう事態は二度目の経験だ。

まだ若い女性の車掌さんが、気丈に平静を装いつつ、最後尾から車内を移動していく。非常用ノブでドアを開けようとして止められてるおっさん。なぜか楽しげにおしゃべりしてるおばさんたち。さっさとドア開けりゃーいいのに、と大声で好き放題言ってるあんちゃんたち。そういう人たちもいるにはいたが、ほとんどの人は、ぎゅっと胸を押しつぶされたような顔で、黙ってスマホをいじっていた。

どんな人が。何の理由で。僕には知る由もない。悲しいし、やるせない。

生きることに絶望してしまう人もいれば、生きたくても生きられない人もいる。自らを殺してしまう人もいれば、誰かに殺されてしまう人もいる。人間はどうして、こうもうまくやれないのだろう。

電車の中で

バンコクから深夜便で羽田空港まで戻ってきて、モノレールと電車を乗り継いで、家に向かっていた時の出来事。

浜松町でモノレールを降り、東京駅から中央線に乗り換えるため、京浜東北線に乗った。土曜の朝の車内、席は埋まっていて何人か立っている人がいたが、僕の乗ったドアのすぐ横の席はたまたますぽっと空いたばかりで、僕は膝の間に大きな荷物を抱えつつ、その席に座った。僕の左隣には、キンドルで本を読んでいる若い女の人が座っていた。

次の駅で、喪服姿で白髪の老夫婦が乗ってきた。乗ってすぐに「あとどのくらい乗るの?」「20分くらいかな」という二人の会話が聞こえたので、僕は立ち上がって荷物を担ぎ、席を譲った。老夫婦の奥さんの方が腰を下ろし、旦那さんはその前に立って吊革につかまった。

僕のいた席の左隣でキンドルを読んでいた女の人は、明らかに老夫婦のことに気づいていた。横目でチラッと二人を見ていたから。でも彼女は、微動だにしなかった。吊革につかまってよれっている白髪の男性が目の前にいるのに、自分はキンドルを読みふけっていて彼の存在に気づいていない、というふりをしていた。

すると次の駅で、その女の人の左隣に座っていた人が降りていった。彼女の左隣は空いたままだ。ちょっと腰を上げて30センチほど移動すれば、老夫婦は並んで席に座れる。でも彼女は、またしても微動だにしなかった。肩を妙に縮こまらせて、ひたすらキンドルを読みふけっている、というふりをしていた。

その女の人の一挙手一投足を目の前で見ていた僕は、何というか、驚きを通り越して、呆れてしまった。なぜ彼女は、最初の時もその次も「自分は何も気づいていない」というふりをしたのだろう。最初の機会に気づかないふりをしてしまったから、次の機会に席をずれれば、自分が気づいていたことがばれてしまうとでも思ったのだろうか。わからない。が、何にしても、彼女の視野とものの考え方は、とても「狭い」状態だったのかなあと思う。

タイの電車の車内では、老人や小さい子供が乗ってくると、若い人たちが先を争うようにサッと立ち上がって、さらりとにこやかに「お座りになってください」と言って席を譲る。それはとても自然で清々しく、やらされてる感のかけらもない、気持ちのいい光景だ。敬虔な仏教国の人々ならではの、心に根ざしている教えもあるのだろう。

でも、東京では、電車にそういう身体の弱い人が乗ってきても、見て見ぬふり、気づかないふり、をする人が、前にも増して多くなった。みんな、席に座ってスマホやキンドルをいじってないと、死んでしまうとでもいうのだろうか。

みっともないよ。そういうの、ほんとに。

アイデアは無料ではない

今年の初め頃、人づてに、とあるWeb制作会社からライティングの仕事の依頼を受けた。ある航空会社が運営するサイト内で、全国各地の観光スポットを季節やテーマに応じて紹介していくコンテンツで、スポットの選定と写真素材の提供交渉(予算がないというので観光局などから無料で貸してもらうように交渉する)、そしてスポット紹介のテキストやリードコピーの執筆が僕に依頼された仕事だった。二回目からは季節に合わせたテーマ案とスポット候補の提案から参画させられた。

しかし、二回目のコンテンツが完成した後、三回目の制作は、他のWeb制作会社とのコンペになった(僕は知る由もないが、先方に航空会社のご機嫌を損ねる何事かがあったらしい)。僕は当初そのコンペにはいっさい関与していなかったが、インドから帰国した直後あたりに、先方の社内で配置換えさせられたばかりの女性プロデューサーから「こちらで提案した企画が差し戻されて、再提出の期限が迫っています。何かいいアイデアはありませんか?」という泣きのメールが送られてきた。そもそもコンペのこと自体、僕は詳細をまったく聞かされていなかったし、だったらなぜ最初から僕を企画会議に参加させなかったのかと訝ったが、前に継続案件になることを想定して温めていたテーマ案とスポット候補のリストをメールで送った。

それから一カ月間、そのWeb制作会社からはまったく何の連絡も届かなかった。三回目の制作のスケジュールを考えれば、とっくに時間切れだ。で、アラスカから戻ってきた後に、件の女性プロデューサーにメールで問い合わせると「ついさきほどクライアントから連絡があったのですが……」と(そんな遅すぎる上に同日というタイミングで連絡が来ることはありえないので、もちろん言い逃れのための嘘だ)彼らがコンペに負けたことを知らされた。その結果は僕には別にどうでもいい。だが、こちらから提供したテーマ案とスポット候補の企画の処遇について聞くと、それに対するコンペフィーは払えないという。その件で別の男性ディレクターが送ってきたメールには「そこに費用が発生するなどとは我々は想像もしていませんでした」と、しれっと書かれていた。

こういう場合にアイデアを出してほしいと依頼する時、コンペに負けたらコンペフィーが払えない事情があるなら、あらかじめそう伝えた上で「それでもよければご協力いただけませんでしょうか?」と頭を下げて依頼すべきだ。僕が依頼する側なら必ずそうするし、それが常識だと思う。アイデアは無料ではない。なぜなら、それは人が知恵と労力を費やしてゼロから生み出したものだからだ。でも、最近の世の中には、人の頭の中にあるアイデアはタダで拝借できると勘違いしている輩が多いようだ。個人だけでなく、企業のレベルでも。あきれてものが言えない。

件のWeb制作会社とは、完全に縁を切った。ああいうしょうもない会社がどういう運命を辿るのかは、自ずとわかる。

「君の名は。」

予想以上の大ヒットで映画館がずっと混雑していたのと、ここしばらくのせわしなさで、なかなか見られないでいた新海誠監督の「君の名は。」を、ようやく観に行くことができた。

千年ぶりに現れた彗星が近づきつつある日本。とある山奥の田舎町に住む高校生、三葉は、不思議な夢を見るようになった。東京にいる見知らぬ少年となって、彼の生活をまるで現実のことのように体験する夢。一方、東京で暮らしている高校生、瀧も、山奥の町にいる見知らぬ少女になってしまう夢を見るようになった。やがて二人は、実際に互いが入れ替わる現象がくりかえされていると気付く。まだ出会ったことのない、出会うはずもなかった二人が、不思議な形で結びつけられた意味は……。

新海監督はもともと独自の世界観と個性的な作風を持っていた方で、これまでの作品は必ずしも万人受けするものとは言い切れないところがあった。SF寄りの作品でも、現実世界寄りの作品でも、大切にしていたのに失ってしまったものを取り戻せない切なさ、やりきれなさのような後味を残す作品が多かった。でも、この「君の名は。」は、そこから立ち上がって、運命に抗ってさえ、大切なものを取り戻すためになりふり構わず駆け出していくような、そんな作品になっていたと思う。

作中には、これまでの新海監督の作品(CMも含めて)のセルフオマージュとも言える要素が数多く盛り込まれている。逆に言えば、過去のそうした蓄積がリブートされてエンターテインメント作品として最適なバランスで昇華されたのが「君の名は。」と言えるのかもしれない。

とりあえず、このピュアで王道なストーリーを素直に楽しめるくらいには、自分に人並みにノーマルな感情が残っていることにほっとしている(笑)。観客は圧倒的に10代、20代が多いのだそうだ。ティーンエイジャーのうちにこういう映画を観ることのできる人は、幸せだと思う。まだの人は、ぜひ映画館へ。

「Tamasha」

tamasha今年の夏のラダック滞在、成田からデリーまで往復したエア・インディアの機内では、例によってインド映画三昧だった。機内でラインナップされていた中で一番観たかったのは、「Tamasha」。監督はイムティアーズ・アリー、主演は「若さは向こう見ず」に続いての共演となるランビールとディーピカ。東京で密かにロケが行われた作品という点でも気になっていた。

コルシカ島を旅していてパスポートとお金をなくして困っていたターラーは、芝居がかった嘘ばかり話す、ドンと名乗る男と出会う。二人は「コルシカにいる間は、お互いのことは嘘しか言わない。コルシカで起こった出来事はコルシカに置いていこう」と誓い合い、ターラーのパスポートとお金が届くまでの短い時間を二人で過ごす。別れの日が来た時、ターラーは本当の名前も知らない彼に惹かれていることに気づく。

数年後、二人はデリーで再会する。ドンことヴェードは、コルシカを旅していた時の彼とは別人のように実直なエンジニアとなっていた。やがて二人はつきあい始めるが、コルシカでの彼の記憶が忘れられないターラーは……。そして、本当の自分自身とは何なのか、子供の頃から引きずる苦悩と向き合うヴェードは……。

シンプルに若さはじけるボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリーなのかと思いきや、それだけではなく、自分自身の弱さと向き合いながら道を探すヴェードの成長物語でもあり、冒頭から織り込まれている謎めいた劇中劇もきっちり伏線となって最後に収斂されているあたり、予想よりも凝った作りで、観ていて楽しかった。ただ、前半のコルシカ島での二人の物語がとても鮮やかで魅力的だった分、二人のすれ違いとヴェードの葛藤を描く後半はややパワーダウンした印象になったのは否めない。ターラーには後半ももっと物語に絡んでほしかった。

ラスト直前には東京で撮影された場面。重要なシーンに東京を選んでもらえたのは、ちょっとうれしい。そんな縁もあるのだから、この映画、日本で、日本語字幕付きで公開されるといいなあ……と希望的観測を書いてみたり。面白い作品だったので、ぜひに。