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「チェンナイ・エクスプレス」

chennaiex昨日の夜は、渋谷で今週だけレイトショー上映されていた「チェンナイ・エクスプレス」を観に行った。この間アラスカに行った時に機内で一度観た映画だし、11月中旬には日本語字幕のついたDVDも出るそうなのだが、いや、やっぱり、映画館の大きなスクリーンで観ることができてよかった。この映画は、映画館で観てこそその楽しさを存分に味わえる作品だから。

作品の完成度としては、雑とまではいかなくても、かなり荒っぽい場面展開や、正直さすがにこれはいらんだろと思える部分も確かにある。でも、南インドのうららかな風景の中で、生意気な小娘のディーピカがどんどん艶やかになっていくさまや、へなちょこでおどけた主人公だったシャールクがこれでもかと魅せるクライマックスを大スクリーンで堪能してると、何かもう細かいこととかどうでもいいや、たのしー! って気分になる(笑)。そうやっておおらかに映画館で楽しむのが、インド映画の一番真っ当な楽しみ方なのだと思う。

まさに、とてもインド映画らしい、インド映画だった。満足、満喫。

「めぐり逢わせのお弁当」

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先週末から公開された映画「めぐり逢わせのお弁当」を観に行った。お盆とはいえ平日なのに、シネスイッチ銀座では午前中から長蛇の列が(汗)。もともと午後の回で観るつもりだったので事なきを得たが、その後も立ち見が続出。今、シネスイッチ銀座でかかっているのは、この「めぐり逢わせのお弁当」と、六月末からロングラン中の「マダム・イン・ニューヨーク」。インド映画が銀座を席巻している(笑)。

インドのムンバイには、各家庭で作られたお弁当をオフィスに配達し、食べ終えた後の弁当箱を再び家庭まで運ぶ役目を担う、ダッバーワーラーと呼ばれる人々がいる。5千人ほどいるというダッバーワーラーが一日に運ぶお弁当の数は、約20万個。誤配送が起こる確率は600万分の1と言われている(正直、もっとやらかしてるような気がしないでもない‥‥)。その、600万分の1の確率でしか起こらないお弁当の配達ミスが、決して出会わないはずの二人をつなぐきっかけになる。料理にかいがいしく腕をふるいつつも、夫の愛情を取り戻せないでいるイラ。妻に先立たれた後、生きる意味を見出せないまま早期退職の日を待ちわびているサージャン。間違って届けられた弁当箱に忍ばせるようになった短い手紙のやりとりが、互いの悩みをときほぐし、やがて支えとなっていく‥‥。

ロマンチックな映画だ。予想していたよりも五割増しくらい(笑)ロマンチックだったように思う。でも、主演の二人の演技や作品全体を通じた演出にきっちり抑制が効いていて、場面描写もリアリティを重視して描かれているので、観ているうちにすっかりその場面に引き込まれてしまう。ムンバイの雑踏、満員電車、おばちゃんのどなり声、ダッバーワーラーたちの歌など、ムンバイの空気を感じさせる音の要素も何だかすごく懐かしく感じた。

この映画のラストシーンは、いろんな解釈ができる。監督はもっと具体的な、物語を物語として完全に終わらせる選択肢も用意していたと思うが、あえて「委ねる」ことを選んだのだろう。監督、たぶんキアロスタミとか好きなんだろうなと思って検索してみたら、大当たりだった(笑)。

弁当箱の中に忍ばせた、顔も知らない相手との手紙のやりとり。でも、いや、だからこそ、受け止めることのできる気持もあるのだと思う。

「ダバング 大胆不敵」

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先週末からシネマート新宿での公開が始まった「ダバング 大胆不敵」(この邦題はとても良いと思う)を観に行った。毎週月曜はメンズデーだそうで、1100円で観ることができた。

インドでは知らぬ者のいない「3カーン」の一人、サルマン・カーンの代表作のこの作品は、これぞまさにマサラ・ムービーと呼べるもの。笑いやロマンスや家族愛、悲劇にスリルにサスペンス、激闘、復讐、そしてハッピーエンド。あらゆるドラマ要素をぶち込んで、歌とダンスと一緒にぐつぐつ煮込んだ映画だ。

ありえないくらいデタラメに強く、結構あくどいこともするんだけど、お茶目で優しいところもあったりして、どうしても憎めないやつ。そんな主人公のチュルブル・パンデーが、物語を最初から最後まで、ハチャメチャな勢いで引っ張り続ける。この映画、少なくとも初見では細かいことをいちいち思いめぐらしながら観るような映画ではない。頭をカラッポにしてぼーぜんと眺めながら、「ねーよ! んなわけねーよ!」と心の中でツッコミまくり、喜怒哀楽のアップダウンに思うぞんぶん浸って、「はー、すっきりした」と言いながら映画館を出るような映画だと思う。

日本人でインドという国を好きな人と嫌いな人とが結構はっきりと分かれるように、ある意味インドの濃縮果汁みたいなこの映画も、日本では好き嫌いがはっきり分かれると思う。決して万人受けはしないと思うが、インドの庶民が一番食いついて観るのはこういう典型的な娯楽映画なのだ。だから、この「ダバング 大胆不敵」が日本で公開されたのは、これからの日本でのインド映画の扱われ方にとって大きな意味があったと思うし、できれば少しでも良い興行成績をあげてくれればと思う。

「DHOOM:3」の短縮版騒動に思う

日活と東宝東和が手を組んで、アジア映画を日本で紹介していくためのレーベル「GOLDEN ASIA」を立ち上げると発表された。で、そのレーベルから、以前から日本上陸が噂されていたインド映画史上ナンバーワンヒット作「DHOOM:3」と、ラダックのヌブラでも撮影されたヒット作「BHAAG MILKHA BHAAG」が、年末から来年にかけて公開されるという。喜ばしいニュースのはず、だったのだが‥‥。

この2つのインド映画、どちらもカットされた短縮版で上映されるというのだ。「DHOOM:3」は162分が147分に、「BHAAG MILKHA BHAAG」は186分が153分に。これを知ったインド映画ファンたちは、SNS上で猛反発。リアルタイム検索で見たかぎり、短縮版での上映になることについて、肯定的な意見は皆無だった。

特に、昨年大ヒットした「きっと、うまくいく」で日本でも有名になったアーミル・カーン出演のアクション超大作「DHOOM:3」は、日本への上陸を心待ちにしていたファンも多かったので、それがカットされてしまうことのショックも大きかったように思う(僕自身もそうだ。がっくりきた)。短縮版になることについては、配給会社や映画館の側にもいろんな事情があるのかもしれない。しかし‥‥162分を147分にしたところで、何か運営面で大幅に改善できる面がはたしてあるのだろうか。はなはだ疑問だ。

もし仮に、「短縮版を上映することで、より多くの層にインド映画のよさをアピールしていきたい」といった戦略による判断なのだとしたら、配給会社や映画館はそれと引き換えに、日本のインド映画支持層の中核を担っている熱心なファンの支持を失うことになる。インド映画がまだ全然マイナーだった頃から、熱心に何度も映画館に足を運び、クチコミやSNSで地道に評判を広げ、ヒットすると自分のことのように喜んでいたファンの支持を。彼らコアなファンたちは、上映される作品そのものに何よりも愛着を感じているのだから。

オリジナル版で上映されるのが一番望ましい選択肢だとは思うが、仮に短縮版での通常上映に固執するなら、レイトショーでも構わないから、どこかで字幕付きのオリジナル版を映画館で鑑賞できる機会を設けてほしい。オリジナル版はDVDだけで、というのはやめてほしい。「DHOOM:3」は、大きなスクリーンで堪能してこそ意味のある作品だ。

本当の意味でインド映画が日本で認められるのには、まだまだ時間がかかるのかな‥‥。

「マダム・イン・ニューヨーク」

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昨日はシネスイッチ銀座で公開初日を迎えた「マダム・イン・ニューヨーク」を観に行った。あいにくの雨にもかかわらず、午後半ばからの回はほぼ満席。上映中は笑いさざめく声と涙ぐむ気配が広がり、終了後には拍手も涌き起こった。

主人公のシャシは、インドの良妻賢母を絵に描いたような、穏やかで賢く、美しい女性。ただ彼女には、義母を除く家族の中で一人だけ英語が苦手というコンプレックスがある。家庭を守るための彼女の日々の努力にも関わらず、夫からはことあるごとに軽く扱われたり、娘からも傷つく言葉を浴びせられたりして、密かに悩み続けていた。

そんなある日、ニューヨークに暮らす妹のマヌから姪の結婚式の準備を手伝ってほしいと頼まれたシャシは、家族よりも一足先に、五週間の予定で単身ニューヨークに旅立つことになる。初めての異国の地でおっかなびっくりのシャシは、案の定、英語ができないことでひどく打ちひしがれた思いを味わうはめに。そんな彼女の目に飛び込んできたのは、バスの車体に貼られた「四週間で英語が話せる」という英会話教室の広告だった‥‥。

女性の尊厳と自立とか、家族との関係とか、この映画が発しているメッセージはいくつもあるけれど、とりわけ強く印象に残ったのは、「言葉」というテーマだった。インドという国では、英国に占領されていた頃の名残で、英語は準公用語として比較的よく通じる。映画やテレビを見ていると、びっくりするくらいヒンディー語と英語がちゃんぽんで使われていたりする。英語を使うとちょっとカッコイイ、今風でイケてるみたいなイメージも、たぶんあの国の中ではあるのだろう。でもこの「マダム・イン・ニューヨーク」では、英語を流暢に話せる人たちすべてが礼賛されているわけではなく、むしろチクッと刺すような描写もある。「英語が話せるかどうかで人としての価値が決まるものなの?」と。

言葉は、人と人とが思いを伝え合うために欠かせない手段だが、言葉が何の問題もなく通じ合うからといって、心も通じ合っているとはかぎらない。英会話教室に集まった生徒たちは、国も人種も母国語もバラバラで、英語も初めはおぼつかないけれど、心は不思議なくらい通い合い、かけがえのない絆を育んでいく。時には感情に任せて相手にわからない言葉で語りかけてさえ、伝わっていく思いもある。言葉はあくまで手段の一つでしかなくて、大切なのは、思いをどうにかして伝えようとすることなのだと。

小さな勇気を積み重ねれば、人は自分を変えられる。自分の人生を取り戻すことができる。観終わった後、素直にそう思わせてくれる、清々しい風が吹き抜けるような作品だった。