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白鳥の歌

父が生前に撮影した写真。安曇野にある、冬の早朝に白鳥が集まる池で撮ったものだと思う。父が勤めていた高校の元同僚(僕も教わったことがある)でカメラ仲間の方が、葬儀の時にこの写真を大きく引き伸ばして持ってきてくださった。家族もみんな気に入っていたので、父の訃報を伝えるハガキの裏面にこの写真を刷って、知人の方々に送った。

白鳥の歌、か。カッコつけやがって。

「息もできない」

痛ましい映画だった。悲しくて、もどかしくて、どうにもやりきれない。最後まで、救いの欠片すら見当たらない。

息もできない」の主人公サンフンは、借金の取り立てを生業とするチンピラ。母と妹を死なせた父に対する憎悪に苛まれたまま、他人を暴力で傷つけることでしか生きていけない男。そんな彼がふとしたことで出会った勝気な女子高生ヨニは、心を病んだ父と荒れ狂う弟との間で、絶望に蝕まれていた。互いの心の傷の理由を知らないまま、二人は次第に惹かれあい、夜の漢江のほとりで涙を流す。だが苛酷な運命は、容赦なく彼らを押し流していく——。

一番近しい、大切な存在であるはずの家族ですら、傷つけずにはいられない人々。相手を殴りつけるサンフンの拳が血に染まり、ガツッ、グシャッと生々しい音が響くたび、観る者は思い知らされる。彼は、自分自身をも無惨に傷つけているのだと。

この映画で、製作、監督、脚本、編集、主演の5役をこなしたヤン・イクチュンは、これが初の長篇監督作品。彼自身、家族との間に問題を抱えたまま生きてきて、そのもどかしい思いを、作品として吐き出してしまいたかったのだという。自分の家を売り払ってまで製作費を捻出し、文字通りすべてを注ぎ込んで作り上げたこの「息もできない」は、彼にとって「作らずにはいられなかった映画」なのだろう。作り手として、「これを作らなければ、一歩も前に進めない」という抜き差しならない気持は、少しわかる気がする。僕自身、そういう思いにかられて本を書いたことがあったから。

ストーリーが比較的単純で伏線の先が読めてしまうとか、韓国映画特有の冗長な描写があるとか、いろいろ言いたい人はいると思う。でも僕は、この作品の評価をそんな上っ面なところでしてしまいたくない。「作らずにはいられない」という思いで、ヤン・イクチュンが自らの魂を削って作り上げたからこそ、この映画は観る者の心を動かすのだから。

がんばりすぎない

午後、銀座でインタビューの仕事。ラダック関係以外ではひさしぶりの取材だったが、どうにか首尾よくやり遂げる。

その後、外苑前に移動し、以前「ラダックの風息」のデザインを担当していただいた井口文秀さんのオフィスを訪問。軽く打ち合わせをさせていただいた後、井口さん行きつけの広尾の寿司店へ。寿司といっても、値段的にはかなりこなれている店なのだが、その割にはとてもおいしかった。

井口さんとは、僕が雑誌編集をしていた頃からの戦友的な間柄。約10カ月ぶりにお会いしたのだが、僕が何の遠慮もなくいろんな話をするのを、ニコニコと笑いながら聞いていただいた。

話が僕の父の話題になった時、井口さんが僕にこう言った。

「ヤマタカさん。お父さんのことがあったからといって、がんばりすぎない方がいいですよ」

井口さんは約七年前にお母様を急な病で亡くされたのだが、その時、そこから立ち直ろうとがんばりすぎて、逆に辛い精神状態に陥った時期があったそうだ。あまりに強く思い詰めてしまうと、それが自分自身を追い詰めてしまう、と。

本当にそうだなあ、と思う。今の僕は、父を失ったことだけでなく、その後ラダックや日本で僕を支えてくれたたくさんの人たちに絶対に報いなければ、と背負い込んでいるふしがある。背負うものが重すぎると、僕自身がそれに押しつぶされてしまうかもしれない。

がんばりすぎないように、がんばろう。

時間の優しさ

週末を利用して、岡山の実家に帰省していた。僕が帰国するまで待ってもらっていた、父の納骨式のために。

納骨式は、昨日の朝のうちに行った。うちの家系の墓は、実家からすぐのところにある。雲一つないうららかな空を見上げながら、みんなで墓地まで歩いていく。墓地で待っていてくれた業者さんが、墓石の一部を外し、父の骨壺を中に収め、再び墓石を元に戻す。新しい花を挿し、水をかけ、ビールとおつまみを供え、線香を上げる。それでおしまい。父は、無宗教での弔いを望んでいたから。

父が逝った直後に比べると、母と妹はずいぶんしゃんとして、元気になっていた。誰も彼も、父のいない日常を少しずつ受け入れつつある。実家の中には、まだ至るところに父の気配が——ぎっしりと積み上げられた本や、几帳面に整理された文房具や、使い古された安楽椅子が——あるけれど、その気配も、時が経つにつれ、少しずつ薄れていくのかもしれない。それが、時間の残酷さであり、優しさでもあるのだろう。

父について

2011年7月27日未明、父が逝った。71歳だった。

当時、父は母と一緒に、イタリア北部の山岳地帯、ドロミーティを巡るツアーに参加していた。山間部にある瀟洒なホテルの浴室で、父は突然、脳内出血を起こして倒れた。ヘリコプターでボルツァーノ市内の病院に緊急搬送されたが、すでに手の施しようもない状態で、30分後に息を引き取ったという。

父の死を報せる妹からのメールを、僕は取材の仕事で滞在中だったラダックのレーで受け取った。現地に残っている母に付き添うため、翌朝、僕はレーからデリー、そしてミラノに飛び、そこから四時間ほど高速道路を車で移動して、母がいるボルツァーノ市内のホテルに向かった。

車の中で僕は、子供の頃のある日の夜のことを思い出していた。その夜、僕たち家族は車で出かけて、少し遠くにある中華料理店に晩ごはんを食べに行ったのだ。店のことは何も憶えていないが、帰りの車で助手席に坐った時、運転席でシフトレバーを握る父の左手にぷっくり浮かんだ静脈を指でつついて遊んだことは、不思議によく憶えている。指先に父の手のぬくもりを感じながら、「もし、この温かい手を持つ人が自分の側からいなくなったら、どうすればいいんだろう?」と、不安にかられたことも。

翌朝、病院の遺体安置所で対面した父は、まるで日当りのいい場所で居眠りをしているような、綺麗で穏やかな顔をしていた。腹の上で組まれた父の手に、僕は触れた。温かかったはずのその手は、氷のように冷たく、固かった。

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