年末年始、岡山に帰省する日程がどうにか固まったので、三鷹駅に新幹線の切符を買いに行く。
みどりの窓口で希望列車のメモを差し出して空席をチェックしてもらうと、思いのほか、空いてない。どうにか見つくろってもらったものの、行きも帰りも、無駄に早起きして駅に行かなければならなくなった。出遅れた。やれやれ。
帰省しても、姪と甥の圧力にやられて、ゆっくり骨休めはできそうにないしなー。これで移動もきついとなると、疲れる年末年始になりそうだ。
年末年始、岡山に帰省する日程がどうにか固まったので、三鷹駅に新幹線の切符を買いに行く。
みどりの窓口で希望列車のメモを差し出して空席をチェックしてもらうと、思いのほか、空いてない。どうにか見つくろってもらったものの、行きも帰りも、無駄に早起きして駅に行かなければならなくなった。出遅れた。やれやれ。
帰省しても、姪と甥の圧力にやられて、ゆっくり骨休めはできそうにないしなー。これで移動もきついとなると、疲れる年末年始になりそうだ。
今度の年末年始は、岡山の実家に帰省する。そこで待ち構えているのは、姪っ子と甥っ子。
姪っ子は来年中学生になるので、遅めのクリスマス兼ちょっと早めの進学祝いに、iPod nanoをプレゼントすることにした。正直、iPod shuffleでもいいんじゃね?と思ったが、彼女曰く「指でこう、しゅっとやりたいんじゃ」とのことなので(苦笑)。
で、そうなると黙っていないのが甥っ子。五歳という物欲に目覚めまくりの年頃の彼は、電話のたびに「プレゼント何くれるん?」と単刀直入にねだってくる(苦笑)。とはいえ、戦隊モノや仮面ライダー系のおもちゃは個人的に買い与えたくないので、考えた末、講談社のDVD付き昆虫図鑑にした。さて、吉と出るか凶と出るか。
これだけで終わらないのが恐ろしいところで、お年玉というやっかいな慣習もある。姪っ子にはiTunes Card、甥っ子には図書カード‥‥はー。あれこれひっくるめて、諭吉さんが二枚飛んでいった。やれやれ。
この間のアラスカ旅行でキャンプ・デナリに滞在していた時、父の友人だったご夫妻が「うちのキャビンにあったメッセージ・ノートに、章二さんが書いた文章が残っていた」と知らせてくれた。両親は三年前に一度、キャンプ・デナリに泊まったことがあったのだが、母も、父がこんなものを書き残していたとは知らなかったという。
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31〜4/8〜9/2009(4泊5日)
私たち夫婦は定年退職後、世界のあちこちに旅をし、その度に素晴らしい景色や忘れられない体験に出会ってきましたが、ここアラスカ・デナリの秋の旅ほど素晴らしいものはなかったように思う。今日は快晴、朝焼けのマッキンレーから充分に堪能しました。ワンダーレイクの先のバートレイルのトレッキングは、逆光・斜光に輝くアスペンやブルーベリーの黄や赤越しにマッキンレーに向かっていきました。連山は雲の腰帯を巻き、時には鋭い雪嶺が雪を吐いたりしていました。マッキンレー川の広い河原のランチも嬉しいことこの上ない。標高6194m、麓からそびえる高さ5500mは世界一と聞く。何だ! この堂々たる巨大な山塊は。文句なしに威風堂々。
アラスカの山野は意外と女性的で、また湿潤だという印象を受けた。フェアバンクスからデナリまでの列車の旅で充分に黄葉を楽しんだが、デナリの駅から当ロッジまでのバスの旅の車窓風景が何とも素晴らしかった。山岳地帯に広大な河原や湿原(ツンドラ)が続き、野生動物が生を営む姿も見える。カリブー、グリズリー、ビーバー、ムースなども近くに見つけられた。そして、これがアラスカだという印象が日に日に濃く詳細に形成されていく実感がある。
今日でトレッキング3日目。これまでトレッキング・ロードにただの一片のゴミさえもなかった。なんと立派なことか。わが国民は真似ができまい。ロッジのサービスも十二分に満足している。まるで貸別荘のような居心地のいいロッジから、この美しい秋の光景を楽しんでいる。そして美味しい食事。もうすっかり日本のわが家の暮らしも忘れてしまいました。今夕は、夕焼けのマッキンレーが見られるかもしれません。
明日はアンカレッジ、そして、カトマイに行きます。今秋、最高の旅を有難う。デナリ・ロッジよ、アラスカよ。
JAPAN 岡山 山本章二、美枝子
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父のこの文章について、僕が語れることはそう多くない。ただ、言えるのは‥‥父が僕に望んでいるのは、彼ができなかった生き方を、僕がやる、ということだと思っている。
細田守監督の最新作「おおかみこどもの雨と雪」は、日本に戻ったらすぐ観に行かなければ、とずっと気になっていた映画だった。で、昨日新宿の映画館に行くと、上映の二時間前からすでに席が売り切れていて、別の映画館でようやくすべり込めたという次第。
東京の西の外れ(国立らしい)の大学に通う花は、人間の姿に身をやつして生きる“おおかみおとこ”と出会って恋に落ち、一緒に暮らしはじめた。やがて二人の間には、雪の日に生まれた姉の「雪」と、雨の日に生まれた弟の「雨」という“おおかみこども”が生まれる。しかしある日、父親の“おおかみおとこ”はあまりにも唐突に命を落とす。大切な心の支えを失った花と二人の子供たちは、東京を離れ、人里離れた山奥の古民家で暮らすようになった‥‥。
人間とおおかみの二つの顔を持つ“おおかみこども”という設定はまぎれもなくファンタジーなのだが、この映画での花と子供たちの暮らしぶりは、とても丁寧で細かく、地味といっていいくらい現実味のある描かれ方をしている。「時をかける少女」のような切なく甘酸っぱい青春物語でもなく、「サマーウォーズ」のように爽快な冒険活劇でもないけど、この「おおかみこどもの雨と雪」では、穏やかで何気ない、でも確かなものが語られている。
子供が成長し、自分の居場所ややりたいことを見つけると、やがて、自分の生き方を選ぶ時が来る。子供にとってそれを選ぶのは覚悟が要ることだが、親にとっても、子供が生き方を選ぶのを黙って見守ることには勇気が要る。僕は親の立場になった経験はないから偉そうなことは言えないけれど、子供が誇りを持って生き方を選べる人間になれるように育てることは、親の一番大切な役割なのではないかと思う。昨年他界した僕の父は、僕が進学や仕事に関わることでどんな選択をしても、ずっと僕を信じて、辛抱強く見守っていてくれた。そのことには、本当に感謝している。
雨が自分の生き方を選んだ時、花は笑顔で「しっかり生きて!」と言った。あのひとことに、この映画のすべてが込められていたような気がする。
昨日の夕方、出版社から「ラダック ザンスカール トラベルガイド」の見本誌が二冊届いた。梱包を開けて本を手に取り、カバーや帯、折込地図の具合を確かめ、ぱらぱらとめくってみる。この一年半、必死になって作り続けてきた本。よかった。ちゃんと一冊の本になっている。
嬉しいとか、報われたとか、そういうわかりやすい感情は、不思議と湧いてこなかった。僕はただ、ぼんやりと、実家の和室の縁側にあった安楽椅子のことを考えていた。
去年の夏、イタリア旅行中に急死した父の葬儀のため、僕はラダックでの取材を中断して、岡山にある実家に戻っていた。葬儀の後、父の遺影と遺骨は、家の西の端にある和室に置くことになった。その和室は家の中でも一番静かな場所で、縁側の外は庭に面していて、とても涼しかった。
縁側に、一脚の古ぼけた安楽椅子がある。ふと目をやると、その安楽椅子の肘掛けの上に、本が一冊、置いてあった。それは少し前に出たばかりの、僕とライターの友人が共同で書いた電子書籍についてのハウツー本だった。たぶん、父がここで読んでいたのだろう。電子書籍なんて、およそ一番縁遠いはずの人間なのに。
僕が新しい本を出すたびに、父は、安楽椅子にもたれながら、僕の本を読んでくれていたのだと思う。自分の本がそんな風にして父に読まれていたことを、僕はそれまで想像すらしていなかった。でも、もうこの安楽椅子で、父が僕の本を読むことはない。そう考えると、胸がぐさっと抉られるような思いがした。
あれから九カ月。僕の新しい本を、父は読んでくれるだろうか。あの空の向こうの安楽椅子で。