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「感謝」のやりとり

疲れていたのか、10時間ばかりも寝た。起きてからしばらくぼんやりとネットを見ていたら、知り合いがこんな記事のことをツイートしていた。

【日刊サイゾー】1枚3万円でも高すぎる! ソーシャルゲームイラストの適正料金はおいくら?

内容云々以前に、この記事からは、イラストレーターという職業に対する敬意が微塵も感じられない。発注元の指示通りに右から左に大量生産する人のことを「職人」と呼んでいるのも、明らかに言葉の選択を誤っている。他の分野の職人の方々に対しても失礼だ。

まあ、この記事を書いたライターも、相当に鬱屈した精神状態なのだろう。こんなことを書いている。

今、有象無象のイラストレーターに求められているのは、筆者のような売文屋に求められていることと近い。原稿料が高かろうと安かろうと、一定のクオリティは保たなければならない。もちろん、原稿料が高ければ、それだけ熱心になるのは当然である。ならばと、原稿料が安いからと手を抜いたら、次から仕事はこなくなる。それにほとんどの仕事では、発注元の指示に従って書くのが当たり前だ。すべての仕事に自分の意見や意図を主張してなんていられない。そういうのは、文豪にでもなって「ぜひ、先生の玉稿を……」と依頼が来るようになってからやればよいことである。

‥‥この記事を読むかぎり、彼が日頃保っている「一定のクオリティ」というのは、相当低い水準にあるのだな、と思わざるを得ない(苦笑)。ちなみに僕の場合、原稿料が高いか安いかは、ほとんどモチベーションに影響しない。自分が面白いと思える本を作れるかどうか、に尽きる。真っ当なクライアントと仕事をしていれば、理不尽なギャラを提示されることもないし。

僕たちの仕事は、「感謝」の気持のやりとりだな、と感じることがある。取材させてもらった相手に対する感謝。制作に関わったスタッフに対する感謝。本を販売してくれる書店に対する感謝。本を読んでくれる読者に対する感謝。そういう気持を忘れずにコツコツやっていれば、取材先の人や、クライアントのスタッフや、書店員さんや、読者の方々から、感謝の気持をもらえることがある。それこそが、僕たちの仕事のやりがいなのだと思う。

この記事を書いた人は、そういう気持を忘れてしまっているのかな。

これからの仕事

午前中から、横浜で取材。立て続けに三件のインタビューをこなすと、さすがに疲れる。取材の本数が増えると、ギャラはそれなりに増えるが、それ以上に体力的にキツイ。取材だけでなく、執筆作業もあるわけだし。

考えてみれば、同年代で僕のようにフリーランスで書き仕事をしている人は、周囲でもだいぶ少なくなった気がする。仕事はキツイし、その割になかなか食えないしで、見切りをつける人が多いのもうなずける。ただ、多くの同業者がこの仕事を離れる最大の理由は、自分がやりたい仕事をやれているかどうか、自分がイニシアチブを握れる仕事をやれているかどうか、という点にかかっているような気もする。いつまでもクライアントに指示されるまま、ひたすら売文を続けるのは、精神的にも厳しいだろうから。

僕自身、手がけている仕事は本当にいろいろで、単著の書籍や署名入り記事ばかり書いているわけではない。ただ、その時々の自分が作りたい本は何なのか、その軸ははっきりしてるから、それ以外の仕事はすっぱり割り切ってサクサク捌いている。最近は、写真と文章で作る旅についての本が自分が一番力を発揮できる題材だということがわかってきたから、別に迷いもない。

だからまあ、しばらくは廃業せずにこの仕事を続けていけると思う(笑)。

作り手に愛されない本

夕方、三鷹で打ち合わせ。秋から年末にかけて制作する書籍について。僕は編集者として関わることになりそう。

版元の担当者の方は、先日問題になった書籍の編集者の上司でもあったのだが、会ってすぐに、誠意を持って謝罪していただいた。当の本人からは、いまだに釈明も謝罪も何もされていないのだが(苦笑)。まあ、そのために時間を割くのも煩わしいので、むしろ、もう何もしてもらいたくない。

たぶん彼は、心理面で何かトラブルを抱えているか、僕に対して悪感情を持っているか、どちらかなのだろう。そのどちらでもなく、健常な状態で普通に仕事した結果があの有様(僕に関する部分以外でも、多数のトラブルがあったらしい)だったとすれば、彼はもう、本づくりの仕事を止めた方がいい。編集者の手抜きは、それ以外に関わったスタッフ全員の努力を台無しにしかねない。そしてその汚点は、「いいかげんな本」という形で、ずっと残ってしまう。

作り手たち自身に愛されない本ほど、不幸な本はない。

力を出せる場所

先月下旬に発売された「ラダック ザンスカール トラベルガイド インドの中の小さなチベット」が、まずまずの売れ行きを示しているらしい。もちろん、インドの山奥のマイナーな地方についてのガイドブックだから、何万部も飛ぶようにというわけにはいかないけど、その割にはまずまず、というところらしい。

僕はこれまで、いろんな雑誌の編集者やライターを務めてきた。だから、著作のラインナップに関しても、マルチというか雑食というか、言うなれば節操がない感じなのだが(苦笑)、他のテーマの本と比較すると、ラダックについて書いた本は、僕のところまで寄せられる反響の数が桁違いに多い。それ以外のテーマで出版社から執筆や編集を依頼された本でも手を抜いたりはしないが、やっぱり、自分が本来の力を一番出せる場所というのはあると思うし、また、それをこそ待ってくれている読者の方々もいるのだと思う。

吹けば飛ぶよなフリーランサーが日々の糧を得ていくには、ヨロズ屋稼業にならざるを得ない時期ももちろんある。でも、自分が一番力を出せる場所はどこか、読者が一番待ち望んでいるのは何かということは、常に考えていなければならない。特に最近は、自分本来のありようをもっとわがままに追求していってもいいのではないかと感じている。

今年の夏、再び彼の地を訪れて、誰もが呆れるようなことをやらかそうとしてるのには、そういう理由もある。

名を成すことには興味ない

「あなたの職業は何ですか?」と訊かれると、僕の場合、フリーランスの編集者であり、ライターであり、時にはフォトグラファーでもある、という答えになる。最初からこうなりたいと思っていたわけではないが、いつの間にか、よろず屋稼業になってしまった。

では、編集者として、ライターとして、あるいはフォトグラファーとして、自分がどれくらいの価値のある人間なのかと訊かれると、ちょっと困ってしまう。一応、それなりのキャリアは積んでいるけれど、何十万部も売り上げた著書があるとか、華々しい賞を受賞したとか、そういうわかりやすい世間からの評価は受けていない。海千山千のフリーライター、みたいなざっくりした見られ方をされるのだろうし、ある意味それは当たっている。

でも僕は、自分が名を成すことには、興味がない。評価はされるに越したことはないけれど、世間から評価されるためにこの仕事を選んだわけではないから。ただ、本づくりの仕事が好きなだけ。編集と執筆と写真をかけ持ちしているのも、それが自分の目指す本づくりに必要だったから。

たぶん、僕が作る本は、百人のうち一人にしか評価されないような本なのだろう。でも、その一人の心を揺さぶれるのなら、僕の仕事には意味があるのかもしれない。肩書や世間体よりも、僕の仕事の価値は、これまで作ってきた、そしてこれから作る、一冊々々の本が語ってくれるのだと思う。