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旅というより

夜、来週火曜からのアラスカへの旅の荷造りに、ようやく着手。

今回の目的地は、南東アラスカ。二年前のようにキャンプをするわけではないのでテント関連は不要なのだが、無人島にある丸太小屋に数日間泊まるので、厳寒期用寝袋とマットレス、炊事道具、フリーズドライの食料、海から上陸する際の長靴など、それなりにいろいろ持って行かなければならない。グレゴリーの95リットルのダッフルバッグが、みるみるうちに満杯になっていく。

おまけに撮影機材も、カメラボディ2台にレンズ4本(うち1本は80−400mmという横綱級)という一番大がかりなセットだし、パソコンとハードディスクもあるしで、ダッフルバッグと同時に全部背負ったら鎖骨が砕けそうなレベルである。何というか、旅の準備というより、引っ越しか夜逃げでもするみたいな気分になってきた。

毎度のことながら、アラスカ、いろいろしんどい。

積み残し、なし

ラダックの風息[新装版]」が発売されてから、1カ月半ほど過ぎた。出版記念関連のイベントや展示は、今月も来月もその先も、まだまだいろいろ続くのだが、この本に対する自分の気持は、ある意味とてもすっきりと整理できたように思う。

ああ、これでやっと、積み残しがなくなったな、と。

ラダックで一人、無我夢中の体当たりであちこち旅をしながら過ごしていたあの頃から、今に至るまでの日々。撮り続けてきた写真、書ききれないでいた言葉。それらをようやく、一番納得のいく形で、一冊の本に凝縮させることができた。だからもう、今までの自分が取り組んできたことをふりかえって気にかける必要はない。これからの自分が何をすべきなのか、何を新たに積み上げていくべきなのか、そのことに集中していける。今、はっきりと、そういう気持になった。

ラダックで、あるいは別のどこかで、何かを追い求めて。その姿は少しずつ、うっすらと見え始めている。

旅の計画

新しい旅の計画を、少しずつではあるけれど、考えはじめた。

日程を検討したり、移動手段や泊まれる場所、必要なものを現地で調達できる店を調べたり。ああしたらどうかな、これがいいんじゃないかな、と旅の計画を考えるのは楽しい。胸の真ん中のあたりがぽっと熱くなって、子供みたいにワクワクしてくるのが自分でわかる。

思い返せば、去年の今頃はスピティのテレビ取材の事前手配で右往左往していて、大変だった。旅の計画を練るという点では同じだけど、他の人たちに気を遣わなければならないので(当たり前だが)、とにかく気疲れした。そういう意味では、自分一人の旅の計画を練るのは本当に気が楽だ。失敗しても、困るのは自分自身。ましてや、依頼された仕事でもない。まあ、一人ならたいてい何とかなるし。

今度の旅では、いったい何が待っているのだろう。

ウィリアム・プルーイット「極北の動物誌」

Animals of the Northウィリアム・プルーイットの名を知ったのは、たぶん他のほとんどの日本人がそうであるように、星野道夫さんの「ノーザンライツ」を読んだのがきっかけだった。

星野さんはこの本の冒頭で、かなり多くのページを割いて、かつてアラスカで実施が検討されていたという核実験計画「プロジェクト・チャリオット」について書いている。その核実験計画に対してアラスカで展開された反対運動で重要な役割を担ったのが、当時、アラスカ大学でもフィールド・バイオロジストとして右に出る者のいない存在であったプルーイットだった。核実験場の候補地に挙げられていたケープ・トンプソンの環境調査を担当した彼は、核実験で放出される放射能が極北の生態系に壊滅的なダメージを与えてしまうという調査結果を報告したのだ。

その後の根強い反対運動が功を奏し、プロジェクト・チャリオットは中止に追い込まれた。だが、それと引き換えに原子力委員会からの見えない圧力を受けるようになったプルーイットは、大学での職を追われ、アラスカだけでなくアメリカからも離れざるを得なくなり、カナダに移住し、そこで極北の自然についての研究を続けることになった。アラスカ大学での彼の名誉が回復されたのは、それから30年も経ってからだった。

1967年に刊行された彼の著書「Animals of the North」が、日本で「極北の動物誌」という本に翻訳されていたのを僕が知ったのは、もう新品が店頭に並ばなくなってからのことだった。残念に思っていたのだが、少し前に、状態のいい古本を手に入れることができた。ゆっくり、時間をかけて、かみしめるように味わいながら読んだ。

トウヒの木。アカリス、ハタネズミ、ノウサギ、オオヤマネコ、オオカミ、カリブー、ムース。極北の自然とその中で生きる動物たちの営みを、プルーイットの訥々とした筆致は、丁寧に、正確に、そして、鮮やかに描き出していく。膨大な時間をかけて、自ら原野を旅し、調査を重ね、見つめ続けた者にしか書けない文章だ。これ以上ないほど抑制の効いた文章なのに、そこからあふれて滲み出ているのは、極北の自然に対する彼の憧れと畏敬の念、そして愛情としか言いようのない思い。生命の尊さと儚さ、それらが巡り巡るからこそ、自然は自然たりうるのだということ。同時に彼は、現代社会に生きる我々人間が、そうした自然の摂理をいとも簡単に踏みにじり、時に回復不能なまでに傷つけてしまうことに鋭い警鐘を鳴らしてもいる。

極北の自然を愛し、その研究に一生を捧げた男。愛する自然を守ろうとしたがゆえに、アラスカから去らねばならなくなった男。彼の遺したこの「極北の動物誌」は、これからも折に触れて読み返しては、ツンドラの冷たい風の感触を思い出してぼんやりと物思いに耽りたくなる、そんな一冊だった。

腑に落ちる

昨日の夜、またしても丑三つ時だったのだが、ベッドに横になってうとうとしてる時に、ぽん、と思いついたことがあった。

それはずいぶん長い間、かれこれ一年近く、どう扱ったものかと思い悩んでいた文章についてのアイデアだった。思いついてしまえば、ある意味とてもオーソドックスな落としどころだったのだが、そっか、それでいいのか、と、僕としてはものすごくすっきりと腑に落ちた着地点だったのだ。まあ、目前の仕事に直接関係のない文章だから、こんな風に今まで頭の中で転がし続けることができたのだが。

とはいえ、これはまだほんの始まりで、これからずんずん、深く深く、潜っていかなければならない。いつかこれを、納得できる形で人に見せられるといいな。