削り出す言葉

子供の頃の僕は、ご多分に漏れず、作文や読書感想文の宿題が嫌いだった。苦手ではなかったけど、いつもメンドクサイと感じていた。原稿用紙の升目に一文字ずつ字を書いて埋めていくのは手が痛くなるし、うまくいかなくなって消しゴムで消したらそれまでの苦労が無駄になるしで、こんなの何が面白いんだ、アホか、と思っていた(苦笑)。

そんな僕もおっさんになり(笑)、何の因果か、文章を書くことを生業にしている。最近思うのは、子供の頃に感じていた「作文」という作業に対する印象と、今の自分が文章を書く作業に対する印象はまったく違う、ということ。子供の頃の「作文」は、一つひとつの言葉を小石を積み上げるようにして書いていた。今の自分は、頭の中にぶわーっとある言葉を、彫刻刀で削り出すような感じで形にしている。たぶんそれは、鉛筆で原稿用紙の升目を埋めていくのと、パソコンのキーボードをカタカタ叩くのとの違いでもあるのかな。

言葉は積み上げるより、削って選び取る方が大変だなあ、と思いながら、今日も本の原稿を書いている。

ミッシング

外は冷たい雨。これから三寒四温で、だんだん空気もぬるんでいくのだろうか。

土曜の夜の飲み会で、店に忘れてきたらしいマフラーが、見つからない。一次会の店に電話して探してもらっても見つからず、自分でも帰る前にさんざん探した二次会の店にもう一度電話しても見つからず。一緒に飲んだ人たちに確認しても、やっぱり見つからず‥‥。他になくしようがないから、どっちかの店で、誰かが持って行っちゃったのか‥‥。

何気にお気に入りのマフラーだったので、結構ショック。チャコールグレーのざっくりした編み目のマフラーで、モヘア混なのでちょっとチクチクしたけど、その感触が好きだった。あー。もうあのマフラーを巻けないのか‥‥。

思いがけない別れ。これもまた人生なのかな。

ホロ酔いかげん

昨日は、夕方から都心でジュレーラダックの新年会に顔を出した。十人くらいの人が参加していたが、みなさんたいそうご機嫌で、たくさんお酒を飲んでいた(笑)。僕はビールを五、六杯飲んだ程度だったのだけど、空きっ腹に飲んだので気持よいホロ酔いかげんで、終電の少し前くらいまでワイワイやっていた。

で、自分ではそんなに酔ってなかったつもりだったけど、一次会の店にマフラーを忘れてきてしまったという‥‥。その店、今日電話をかけて確認しようと思ったら定休日だし。やれやれ、明日出向くしかないのかなー。

もうちょっとあったかくなってくれれば、出かけるのも億劫ではなくなるんだけど。

本づくりに必要なもの

僕はこれまでに何冊か本を書いているけれど、本を出すまでのパターンには、おおむね二通りある。

一つは、出版社の知己の編集者さんから「こういう企画があるんだけど」と執筆を打診されるパターン。具体的なコンセプトが固まっている場合もあれば、ざっくりしたお題だけを振られる場合もあるし、前に雑談レベルで僕が話した内容が先方で企画化されて戻ってくる場合もある。このパターンでは、執筆を引き受けた後、僕の方で細かい構成案を組み、編集者さんと擦り合わせを行い、ゴリゴリと書き進めていく。「いちばんわかりやすい電子書籍の本」「人が集まるブログの始め方」「広告マーケティング力」といった実用系の本がこのパターンに含まれる。

もう一つは、僕自身が企画を作り、出版社に持ち込んで採用してもらってから本を作るパターン。「ラダックの風息」と「リトルスターレストランのつくりかた。」、そして今作っているラダックのガイドブックがこれに当てはまる。僕は基本的にひねくれ者なので(苦笑)、ラダックについての本のように、普通の人の発想だと採用されるのがちょっと無理めなテーマでも、あえて企画化して持ち込む。だって、それが書きたいんだから。昨日のエントリーにもつながるけど、僕自身も、ものすごく個人的な動機で本を書いている。

この間、ガイドブックの担当編集者さんと話をしていた時、「山本さんがあの時、すごく熱心にプレゼンしてくれたから、この企画は通ったんです。そういう熱意が、本づくりには一番大切なんだと思いますよ」と言われた。熱意はあっても、最低限の実力と周到な準備が伴っていなければ、いい本を作ることはできない。でも、何もかもを揃えた上で、最後の最後に必要なのは、やはり熱意なのだと思う。個人的な動機を、意地でも貫き通す熱意が。

そうして作られた本は、必ずしも万人に受け入れられる本にはならないのかもしれない。でも、その熱意こそが、本に魂を宿すのだと、僕は今も信じている。

夏葉社「さよならのあとで」

死は、誰のもとにも平等に訪れる。死からは誰も逃れられないし、愛する人を失う悲しみからも、誰も逃れられない。誰よりも大切な存在だった人でさえ、時に唐突に、理不尽な形で失われていく。

さよならのあとで」は、英国の神学者で哲学者でもあった、ヘンリー・スコット・ホランドの「Death is nothing at all」という詩の本だ。詩集ではなく、この本には、ただ一編の詩しか収録されていない。四十二行の詩と、挿絵と、あとがき。ただそれだけなのに、ページをめくるたび、こんなにも胸を突き動かされるのはなぜだろう。何も印刷されていない、真っ白なページでさえ。この本でしか伝えられない、この本にしか届けられない思いが、一文字一文字ににじんで見える。

この詩は、唐突に立ち去ってしまった大切な人から届けられた言葉なのだと思う。私のことは何気なく心の隅にピンで留めて、これからも続いていく日常を精一杯生きてほしい。私はすぐそこで待っているから、と。僕にとって、それは父の言葉だった。

この「さよならのあとで」を編んだ夏葉社の島田潤一郎さんは、吉祥寺でたった一人で出版社を営んでいる方だ。三年前に会社を立ち上げる前、島田さんは親友でもあった従兄の方を交通事故で亡くした。その時からずっと、島田さんはこの本を作り続けてきたのだという。この本を出すために出版社を始めたといっていいほどの、ありったけの思いを込めて。これは、とても個人的な思いで作られた本だ。でも僕は、そういう個人的な思いを核に作られた本だけが、人の心を突き動かす力を持ち、ずっと読み継がれていくのだと思う。

大切な人を失った人のもとへ、この本が届きますように。