その時が来たら

昨日は出版社で編集者さんと打ち合わせ。先日他の出版社で承認された企画とは別の、もう一冊の本の企画について。

こちらの企画は、まだ完全に決まったわけではないのだが、首尾よく承認されれば、すでに決まっている企画とある程度並行する形で作業を進めていくことになる。ただ、こちらの企画の本は、最終的には現地での取材もしておかないと、仕上げられない。だから、どんなに早くても、世に出るのは再来年くらいになる。先の長い話だ……。

まあでも、インドでは今月から観光ヴィザの発給を段階的に再開していくようだし、国と国との間を行き来する際の検査や隔離措置などのルールがもう少し軽減されれば、海外に取材に赴くことも、再び現実的になってくるのだろう。ぶっちゃけ、そうなったらそうなったで、今までの仕事柄、いろんな取材案件が一気に押し寄せてきて、しばらくはろくに日本に留まれなくなる可能性もある。そうなると、原稿の執筆時間も満足に確保できなくなってしまうわけで……。どう転んでも、何かしら困ることは起こるのだろう。

ともあれ、もうしばらくは様子見というか、待ち、だな。その時が来たら、きっちり無駄なく動けるように、抜かりなく準備しておこう。

再始動

昨日、出版社から、九月初めに提案していた新しい書籍の企画が採用されたという連絡があった。まずは、一冊確定。もう一つ、別の出版社に別の本の企画を提案しているのだが、それはさらに長丁場の制作になりそうなので、まずは先に決まった今回の本の方を、先行させて書いていくことになる。

発売時期は、たぶん来年。いつになるかはわからないが、あまり早いタイミングではないだろう。何しろ、今回も100パーセント書き下ろしの企画なので、現時点では、この世に原稿は一文字も存在していないのだ(苦笑)。これから数カ月間、自分自身の内側にある言葉の沼に潜り続けるような、しんどい日々が続くことになる。

しんどいことは百も承知だけれど、楽しみではあるし、楽しくもある。でも、まあ、やっぱりしんどい(苦笑)。この、新しい本に取り組む時の得体の知れないプレッシャーには、たぶんいつまでたっても慣れることはないだろう。

ともあれ、再始動だ。がんばります。

「俺だって極道さ」

インディアンムービーウィーク2021で今回最後に観たのは、「俺だって極道さ」。主演はヴィジャイ・セードゥパティ、プロデュースをダヌシュが手がけたという、サスペンス・コメディとでも呼べるような作品。

舞台は南インドの街、ポンディシェリー。警官の母親を持つ青年パーンディは、親の期待とは裏腹に極道の世界に憧れ、仲間たちとチンケな悪さをして日々を過ごしていた。彼はある日、耳に障害を持つ女性カーダンバリに出会い、惹かれていく。カーダンバリは、ある目的のために姿を消し、行方不明となった父親からの連絡を待っていた。父親の目的とは、彼の仇敵であり、彼の妻を殺した張本人であり、カーダンバリが聴覚を失くす原因を作ったギャングの頭領への復讐だった……。

予想できるようで予想が裏切られていくストーリーの組み立てが面白くて、観終えた後に、へーっ!と思わず感心してしまった。コメディシーンが途切れない割には結構な数の人が死んでるし(割と軽めなネタの流れで殺される人もいる)、ヒロインのカーダンバリが抱える苦悩は重すぎるし、そのあたりの対比に戸惑う部分はあったのだが、無敵のヒーローというわけではない主人公を飄々と演じたVJPによって、危ういバランスをうまく保っていたように感じた。

こういう作品を世に送り出していることもまた、南インド映画の懐の深さなのだなあ、と思う。

「ラジニムルガン」

最近、何度か通わせてもらってるインディアンムービーウィーク2021。今回見たのはタミル映画「ラジニムルガン」。主演のシヴァカールティケーヤンは、以前観た「レモ」での女性看護師の演技がめっちゃ印象に残っている。ちなみにヒロインも「レモ」と同じ、キールティ・スレーシュ。

マドゥライの富豪アイヤンガライの孫として生まれたラジニムルガンは、職にも就かず、親友のトータトリと遊び歩く毎日。幼い頃の婚約者だったカールティカと再会した彼は、彼女の実家の前でチャイ屋を開業するなど、あの手この手で彼女の気を惹こうとする。一方、アイヤンガライの所有する土地と屋敷をめぐって、街のたかり屋一味が悪事をたくらみはじめ……。

この映画には、二つの大きな特徴がある。一つは、ラジニカーントの出演作や有名なインド映画からの引用やオマージュが、驚くほどたくさん盛り込まれていること。公式によるnoteにまとめがあるので見てもらえるとわかるが、ちょっとありえないくらいの数で、よくもまあここまで、と感心してしまう。僕には元ネタがわかる場面は数えるほどしかなかったが、現地の映画ファンにはたまらない仕掛けだろう。

もう一つの特徴は、暴力や流血沙汰のシーンがほとんどない、ということ。マドゥライを舞台にした映画というと、ギャングとの血みどろの抗争とかを描いたものが多い印象だが、この作品では、誰も死なないし、怪我をするのも数人(しかも原因は不慮の事故)。殴る蹴るの場面もなくはないが、すこぶる牧歌的。ギャング映画の影響で染み付いてしまったマドゥライの街のイメージを変えたいという意図もあったのだろう。

ただ、この二つの大きなお約束を守ったがために、ストーリー自体にはあまり起伏がない。ラジニ様へのオマージュをちりばめたコミカルなシーンが、三時間ほどもわちゃわちゃと続いていく印象。悪役の所業もカワイイものだし、睨み合いはするけど殴り合いはほとんどやらないので、スリルがない。まあ、そういう縛りであえて作った映画なのだから、しょうがないのかもしれない。

ソング&ダンスシーンは明るく華やかなものが多いので、何にも考えずにお気楽な南インド映画をダラ見したい、という時にはいい映画だと思う。

ムネ・ツェンポ

去年の秋に買った、亡命チベット人医師ツェワン・イシェ・ペンバによる長編小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』。ダライ・ラマ六世の詩句を表題にしたこの壮大な物語、自分の本の作業に追われてなかなか手に取れなかったのだが、夏頃からじっくり少しずつ読み進めて、一昨日、最後まで読み終えた。フィクションではあるが、ある意味、ノンフィクション以上に当時のチベットのニャロンの人々の生き様を鮮やかに描き出した、凄い小説だった。

この小説の中で、印象深い場面はいくつもあるが、読み終えた後もずっと脳裏に残り続けている場面が、一つある。それは、物語の舞台となるタゴツァンの谷を占領した中国人民解放軍の政治委員タン・ヤンチェンと、村はずれにあるサンガ・チューリン僧院の高僧タルセル・リンポチェとの会話だ。

「新しい中国は、すべての人々が平等の権利を有し、平等を享受できる国になる」と力説するタンに、リンポチェは言う。「それは実に素晴らしい。我々のかつての王、ムネ・ツェンポの思想とまったく同じだ」と。

八世紀末頃に在位した古代チベットのこの王は、国内に蔓延していた貧富の差をなくすために、自身の分も含め、すべての土地と財産を分割して平等に分け与えた。だが何年か経つと、商才のある者は再び財産を増やし、ない者はまた貧困に陥るようになり、社会の格差は元に戻ってしまった。ムネ・ツェンポは二度、三度と土地と財産の分配を行ったが、そのたびに、しばらくすると国内の貧富の差は元に戻ってしまう。最後には、王による分配を止めるため、ムネ・ツェンポは暗殺されたと伝えられている、と、リンポチェはタンに語る。

タンとリンポチェの対話は、この後も平行線を辿ったまま続くのだが、このくだりを読んでいて、これはある意味、現在の中華人民共和国にもあてはまるな、と思わずにいられなかった。かつて、すべての人々に平等をもたらすという理想に燃える人々が建国したはずのこの国には今、世界でも類を見ないほど極端な貧富の差がはびこっている。人権の面でも平等にはほど遠い。チベットや東トルキスタンでの民族浄化は止まず、香港の民主化運動は文字通り叩き潰された。文化大革命の頃の危うい空気が、最近の中国には再び戻ってきているように感じる。

中国は、そしてチベットは、これから、どうなってしまうのだろう。