冬が来ていた

ここしばらく途切れなく続いていた連絡業務や打ち合わせも、今日になってやや小康状態。午後、ひさしぶりに散髪へ。外は灰色の雲がたれこめ、じめじめと肌寒い。セーターに薄手のダウンを羽織って出かける。

理髪店では予想通り、タイ帰りで妙に日焼けしてることを店員さんにいじられる(苦笑)。特に首の後ろ側のあたりが未だに真っ黒らしい。ともあれ、髪を切ってもらってさっぱりしたところで、まほろば珈琲店まで歩いてコーヒー豆を補充。帰りにたかねでたい焼きをひとつ買い、歩きながら尻尾からかじる。中の餡から湯気がたちのぼる。

交差点での信号待ちの間、両手を上着のポケットに突っ込んで、空を見上げる。冬はもうそこに来ていた。

余計すぎる手間

今、まさに現在進行形の事態なのだが。

今朝、このサイトに使っているWordPressテーマのアップデート通知が来ていて、そんなにメジャーなアップデートでもなさそうなのですぐに適用させてみたら、各エントリー記事のサイドバーの表示・非表示の設定が、これまでカスタマイズメニューから一括操作可能だったのに、新バージョンはそれができなくなり、代わりに各エントリーの編集画面にあるチェックボックスをオンにしなければサイドバーを非表示にできない仕様に変更されてしまっていた。

これが何を意味するかというと、1300以上もある過去のエントリーを元通りにサイドバー非表示にするためには、一つひとつのエントリーの編集画面を開いてチェックボックスをオンにして保存し直すしかないということである。いったい何の苦行だ(苦笑)。余計にもほどがある手間だ。

というわけで、とりあえず600ほど保存し直したのだが‥‥いつ終わることやら。

ひたむきさ

ここしばらく、自分がこれまでラダックで撮影してきた写真のアーカイブを、一から見直す作業をしている。

昔、ラダックに長逗留しはじめた頃に撮った写真を見ていると、ほんとにヘタクソだったなあと痛感する。ミスショットも含めてアーカイブをチェックすると、カメラを構えながら焦ってあたふたしてたのがまるわかりで、使える写真も全然少ない。この程度のウデでよくもまあ、と我ながら思う。

写真も、あと文章も、スキルの面だけで言えば、今の自分の方がずっと上だとは思う。そりゃそうか、ラダックに長逗留していたのは8年も前だし。ただ、自分自身の代表作と呼べるような写真、あるいは文章はと考えると、「ラダックの風息」を超えるものは世に出せていないのではないかとも思う。

たぶんそれは、あの頃ならではの無我夢中なひたむきさとまっすぐな気持が、スキル云々を超えて、ほんの時折、幸運をたぐり寄せていたからだろう。ものにした、というより、たまたま撮らせてもらえた、経験させてもらえた、そのささやかな積み重ねが、あの一冊になった。

僕に限らず、代表作というものは、往々にしてそんな風に生まれるのかもしれない。スキルを超えた、ひたむきさによって。

「テレビ未来遺産 地球絶景ミステリー」

テレビ未来遺産|TBSテレビ11月23日(月祝)20時からTBSで放映される3時間の特別番組「テレビ未来遺産 地球絶景ミステリー」の中で、インド北部のチベット文化圏、スピティの映像が約30分にわたって紹介されます。この映像を撮影するための事前手配と、現地へ同行してのコーディネート業務のお手伝いをさせていただきました。

スピティの現地レポートのナビゲーターを務められたのは、昨年刊行した「撮り・旅! 地球を撮り歩く旅人たち」でもご協力いただいた、写真家の竹沢うるまさん。満月の夜のキー・ゴンパのタイムラプス撮影への挑戦のほか、通常は撮影禁止のタボ・ゴンパ内部を特別許可を得て撮った貴重な映像や、コミック・ゴンパでのチャム(仮面舞踊)と砂曼荼羅の一部始終など、盛りだくさんの内容を凝縮した映像が放映される予定です。よかったらぜひご覧ください。

心の基準点

「長い間、旅に出ていると、日本や日本食が恋しくなったりしませんか?」という質問をよくされる。僕自身は、生まれてこのかたホームシックというものを感じた経験は一度もないし、旅先で日本食が恋しくなった経験も全然ない。

ただ、「帰国してからどういう時に、日本に戻ってきたなあと感じますか?」と聞かれると、リトスタに行って、ビールを飲みつつ、好きなものをあれこれつまんでいる時かな、と思う。旅に出る前の日の夜と、帰ってきた日の夜、定休日や貸切でなければリトスタに行って晩ごはんを食べるのが、僕にとっては一つの儀式のようになっている。

リトスタには旅の前後だけでなく普段からよく行っているのだが、たぶんそれは「ほっとしたいから」なのかな、と最近思うようになった。自分の現在位置を確認する、心の基準点の一つになっているというか。東日本大震災の頃に東京で余震が続いていた時期もそうだったし、先日のパリでの無差別テロなどで気持がどんよりしているような時も、リトスタに行ってごはんを食べると、どこかしらほっとして、我に返る部分がある。

東京での自分の心の基準点がリトスタなら、ラダックでの心の基準点は、ノルブリンカ・ゲストハウスだ。今年の夏も、宿に着いて荷物を置き、台所でチャイをすすっていると、不思議なくらいすべての時間と感覚が巻き戻って、自分がしっくりとあの土地になじむのを感じた。たぶんそれは、楽しい時間を共有してきた記憶だけでなく、2010年の土石流災害の時のようなつらい時間も分かち合ってきた人々がいてくれる場所だからだろう。

心の基準点と呼べるものをいくつも持っている僕は、きっと、幸せなのだと思う。そうした基準点には、人それぞれ、いろんなものがあるはずだ。家族が待つ家での団らん、気のおけない友達との長電話、恋人と歩く散歩道。でもこの世界には、そういう何気ない基準点すら持てないでいる、つらい境遇を強いられている人々がたくさんいる。そういう人たちが世界各地にいることを忘れないこと。どうしたらその人たちの境遇を変えられるのかを考え続けること。心の基準点は、自分自身のためだけでなく、誰かのために何かをする時にも大切になるんじゃないかな、と僕は思う。