うっかり同じ

夜、仕事が一段落すると、WordPressの管理画面を開き、このブログに載せるための文章を書く。

何を書くかは、書きはじめる時点でぼんやり考えている。長さや内容にもよるが、短いものなら10分か15分で書いて、簡単に推敲して、すぐにアップしてしまう。文章を書く際の瞬発力みたいなものを錆びつかせないためには、悪くないトレーニングだと思っている。

ただ、たとえ大半がどうでもいい内容であっても、これだけ毎日々々書き続けていると、たまに昔書いた文章とそっくり同じ内容になってしまうことがある。そういう時は、書いていて「なーんか、既視感あるなあ‥‥」と思えてきて、サイト内を検索してみたら、あーやっぱり、となったりする。

で、何が言いたいのかというと、今日もそんな風にして昔書いたのとほとんど同じような趣旨の文章をうっかり書きそうになったということと、今日書いたこの文章みたいなのも、3年後くらいにうっかりまた書いてしまうかもしれない、ということである。

‥‥ほんとにどうでもいい内容だな、今日は(笑)。

「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」

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家でネットをぼんやり見ていて、たまたま情報を見つけ、気になったので観に行ったドキュメンタリー映画。日本語字幕を担当したのが柴田元幸さんというのにも惹かれたので。

ソール・ライターは、1940年代後半という非常に早い時期からカラーで作品を撮りはじめた写真家で、「ヴォーグ」や「ハーパーズ・バザー」といった錚々たるファッション誌で活躍した人だ。しかし、1980年代に第一線を退いてからは、それまでの名声を避けるようにひっそりと暮らし続けた。彼の未発表作品がシュタイデル社から写真集となって出版されたのは、2006年。彼が82歳になってからのことだ。その後、2013年に彼はこの世を去った。

この映画自体は、映画監督が構えるカメラの前で、一人の老人が穏やかに、時に茶目っ気を見せながら、ぼそぼそとおしゃべりをしたり、モノが多すぎる部屋の片付けをしたり、たまに散歩に出かけて街角でスナップを撮ったりする、言ってみればそれだけの映画だ。ただ、そうした中で何気なく口にされる言葉の端々に、彼ならではの達観した人生観がにじんでいて、「そうだよな、それでいいんだよな」と、すとんと腑に落ちる。時折挿入される彼の作品‥‥徹底して縦位置にこだわり、ガラスや水滴の映り込みを利用ながら、色彩と陰影を大胆に写し取った写真の数々も素晴らしかった。

ただ個人的に、正直言っていきなりぶん殴られたような衝撃を受けたのは、彼の助手を務めていた女性が言った言葉だった。彼はイースト・ヴィレッジで暮らしてきた55年間、ずっと同じスタイルで、発表するつもりもあてもない写真を、街を歩きながら撮り続けていたのだ、と。55年間。忍耐とか努力とか執念とか、そういうこととはもはや別次元の話だ。彼はなぜ、そんなにも長い間、ただ淡々と同じ街角で写真を撮り続けていたのだろう。たぶん、生前の彼にそんな質問を投げかけたとしても、適当な冗談ではぐらかされてしまったのだろうが。

同じ場所で、同じスタイルで、気の遠くなるほどの時間をかけて。そういう世界との向き合い方もあるのだと、僕はこの映画を観て知った。

旅の本、冬の時代

旅の本が、売れていない。書店の旅行関連コーナーに行っても、平積みされている新刊の点数が明らかに少ない。各社でシリーズ化されている旅行ガイドブックも軒並み低調だそうで、コスト的に改訂のメドが立たないものまであるという。

そもそも、海外旅行業界全体が思わしくない状況のようだ。長引く円安傾向に加え、混迷を極める中東の政情不安は、テロという形で欧米諸国にも波及している。地震などの自然災害や、少し前のエボラ出血熱の流行など、マイナス要因を挙げはじめたらきりがない。プラスになりそうな要因は、原油安による燃油サーチャージの低下くらいだろうか。今、日本からの旅行先で安定して人気なのは、台湾だけではないかと思う。その証拠に、台湾関連の本や雑誌、ムックの刊行点数だけが、最近飛び抜けて多い。

こういう状況になると、しばらく前からいつのまにか「トラベルライター&フォトグラファー」みたいなレッテルを貼られている(苦笑)僕のような人間は、やっぱり困る。僕自身は別に旅だけを専門にしてるわけではなく、今も旅とはまったく関係ない本を編集していたりするのだが、個人的に大切にしている企画のいくつかが旅にまつわる本であることは間違いないので、こういう旅行書の冬の時代の到来はきつい。

新しい旅の本の企画書を作っても、出版社では今、前にも増してなかなか相手にしてもらえない。多くの出版社が望むのは、とにかく確実に売上が見込める本。斬新なアイデアは敬遠される。だから、他社の売れ筋企画を臆面もなくパクった本が次々と出てしまったり、同じ地域についての本ばかりが妙に増えてしまったりする。本が売れないから、出版社が用意する予算はどんどん少なくなり、それにつれて品質も下がっていく。

そんな冬の時代に、僕のような人間には、何ができるのだろう?

この仕事をしている以上、常に心のどこかで、カキーンと逆転満塁ホームランを放つためのアイデアを考え続けてはいる。でも、その確率はあまり高くないし、たとえ打てたとしても、実際はそれほど潤沢に報われるわけでもない。

それよりもたぶん大事なのは、逆転満塁ホームランとは別に、本当の意味で自分が大切にしているもの、作りたいと思える本のアイデアを、ぶれずに心の中で持ち続けることなのだと思う。仕事をどうにかこうにかやりくりして持ちこたえながら、チャンスが訪れるのを、息を潜めて虎視眈々と待ち続けるしかないのだ。

‥‥ほんと、バイトでもしようかな(苦笑)。でも、もうしばらく、がんばろう。作りたい本を、作るために。

カレーにソースをかける

終日、部屋で仕事。先々週に収録したロングインタビューの草稿は、とりあえず完成。推敲のためにいったん寝かせて、年明けから始まるWeb連載の構成決めと写真のセレクトに取りかかる。

今年の年末は、本当にのっぴきならないほど忙しい。晩御飯をゆっくり自炊をする心理的余裕もない。なので今夜は外食。ひさしぶりに近所のココイチで、カキフライカレーを食べる。

いつからだったか忘れたが、僕はカツカレーなど揚げ物トッピング系カレーを食べる時、揚げ物の部分にウスターソースをちょろっとかけて食べるのが好きになった。カレーにソースをかけるのは、カレーの味の濃度にもよるし、好き嫌いが分かれそうだけど、オーソドックスなカレーと揚げ物にソースをちょろがけするのは、個人的にはアリだと思っている。

生卵をのせるとか、ソースをかけるとか、カレーの食べ方に関して僕はかなりマイノリティなのかもしれないけど、食ってる本人がうまいと思うなら、いいじゃんそれで、と開き直ってみる。

奥華子「プリズム」

prism奥華子がデビュー10周年の節目にリリースした8枚目のアルバム「プリズム」。無色に見える太陽の光も、プリズムを通せば、七色に分かれて見えることに気づく。日々の暮らしの中で、あるいは自分自身の心の中で、さまざまなことに「気づく」のがこのアルバムのテーマかもしれない、と彼女は以前ラジオで語っていた。

確かにこのアルバムの中では、いろんな「気づき」が歌われている。思い出の中にいる人への気持ち。いつも支えてくれていた家族のぬくもり。身近すぎて気づかずにいた大切な人の存在。何気ないけれど自分にとってかけがえのないもの。気づくことで大切にしていけるものもあれば、気づいてしまったがために傷つくことや、取り返しのつかない後悔に苛まれることもある。そういったさまざまな場面での「気づき」を選び取り、シンプルな言葉で詞に置き換えていく彼女のまなざしの確かさには、毎度のことながら唸らされる。

曲の方も、いい意味ですっぱり開き直ったというか、自分自身にとても素直に向き合って、作りたい曲を作ったんだろうなという印象。彼女の代名詞の一つでもある弾き語りの曲は、意外なことに今回は一曲しかないのだが、アレンジのトーンは全体的にとても安定していて、特にストリングスの加わった曲の繊細なアレンジは、彼女の新しい一面を感じさせる。

12月23日には、昭和女子大の人見記念講堂で開催されるライブに、ひさしぶりに足を運ぶ。このアルバムに収められたさまざまな「気づき」の曲たちがどんな風に歌われるのか、楽しみだ。