人生の終え方

東京は今日、初雪が降ったらしい。終日、部屋で仕事。

デヴィッド・ボウイが昨日亡くなったということで、J-WAVEもInterFMも追悼特集を組んで彼の曲を流し続けている。ヒーローズ、ジギー・スターダスト、チャイナ・ガール、ライフ・オン・マーズ、ファイブ・イヤーズ……。今日だけで、世界中でどれほど多くの人々が彼の曲に耳を傾けたのだろう。

ラジオで、彼が死の二日前にニューアルバム「ブラックスター」をリリースしたばかりだったと知る。一年半に及ぶ癌との闘病を続けながら、文字通り最後の最後まで、一人のミュージシャンとして音楽を作り続けていたのだと。そして今、世界中の人々が彼の人生を思いながら、彼の曲を聴いている。何という人生の終え方だろう。こんな時にカッコイイという安易な言葉は使いたくないが、それでもカッコよすぎる。

僕も自分の人生を終える時は、最後の最後、ギリギリまで、文章を書くこと、写真を撮ること、本を作ることにこだわり続けていたい。デヴィッド・ボウイのようにカッコよすぎる終え方は絶対できなくて、僕はきっと、みっともなくじたばたあがいてるうちに終えてしまうと思うけど。

次の本が最後の一冊になっても後悔しないように、精一杯、心を込めて本を作ろうと思う。

本棚の整理

ほんのちょっとだけ、一念発起。スライド書棚の整理に取りかかる。

仕事机の左隣にあるこの書棚、いろいろ詰め込みすぎて長らくカオスな状態となっていて、本棚なのか物置なのかもよくわからなくなっていた。とりあえず容量に比して本と雑誌が多すぎるので、もう読むことはないだろう古雑誌をごっそり取り出し、小分けにして紐で縛り、古紙回収に出す。あふれかえっていた本を空いたスペースに並べ直し、書類や細かいガラクタを整理すると、どうにか真っ当な本棚の見た目を取り戻すことができた。まあ、奥の方にはまだカオスな部分が多少残っているのだが(苦笑)。

去年からこのかた、日本と海外と行ったり来たりの日々がずっと続いて、年末も相当忙しかったので、いつのまにか、東京の家での日々の暮らしが結構おざなりというかテキトーになっていた気がする。掃除とか整理整頓とか、地味だけど毎日の生活をちょっとずつメンテナンスすることも忘れちゃいけないな、と思う。

本棚の整理一つで、思いのほか、すっきりといい気分になれた。

フォロワーを金で買うことについて

僕の周囲の人も含め、知らない人も意外と多いようなので、一応書いておくが、TwitterやFacebookやInstagramなどの主要SNSのフォロワーは、その気になれば、金で買える。「いいね!」やリツイートの類も、金を払えば購入できる。

直リンクを張るのはバカらしいのでやめておくが、「フォロワー 買う」などのキーワードで検索すれば、その手のサイトや関連情報は山ほどひっかかるはずだ。ここで言う金で買えるフォロワーとは、ほとんどの場合、実在の人間に見せかけて作っているダミーアカウントだ。プロフィールやツイート内容を少し見れば、生きている人間が日々の生活の中で使っているリアルなアカウントでないことは、すぐにわかる。それらのダミーアカウントを大量に保有している業者が、購入を希望した人間のアカウントをフォローする。フォロワーを買ったことがバレにくいように、日本人に見せかけたダミーアカウントを売りにしている業者や、一度にではなく少しずつフォロワー数を増やすプランを持っている業者もいる。たとえば、膨大なフォロワー数の割にリツイートや「いいね!」の数が極端に少ない人がいたら、ちょっと警戒してみてもいいかもしれない。

言うまでもないことだが、フォロワーなどを金で買う行為は、どのSNSサービスにおいても利用規約違反だ。何らかの証拠を掴まれて通報されるなどしたら、購入した人間のアカウントは凍結される。つかの間の虚栄心を満たしたいがために手を染めるにはリスクが高すぎる行為だ。そもそも、見る人が見ればフォロワーを買ったことなどすぐにバレるのだから、指摘されて露見した時の社会的ダメージも大きすぎる。有名人の場合は特にそうだ。

それでもこの手の業者の横行が未だに後を絶たないのは、人気がなくて焦ってる政治家とか、売れなくて焦ってるアイドルとか、ノルマに焦ってる企業のPR担当者とか……要するに、自分を人気者に見せかける必要に迫られている人が少なからずいるからだろう。だが、その見せかけの人気を何らかの形で金を稼ぐ行為に結びつけようとすれば、その人はもう立派な詐欺師だ。まあ、そんな見せかけにだまされる人も相当チョロいと思うのだが。

金を払えば、見せかけのフォロワーたちは買えるかもしれない。だがもちろん、血の通った本当の人間とのつながりは絶対に手に入らない。それでも金でフォロワーを買いに走る人たちは、つくづく可哀想だなと思う。

旅の計画

新しい旅の計画を、少しずつではあるけれど、考えはじめた。

日程を検討したり、移動手段や泊まれる場所、必要なものを現地で調達できる店を調べたり。ああしたらどうかな、これがいいんじゃないかな、と旅の計画を考えるのは楽しい。胸の真ん中のあたりがぽっと熱くなって、子供みたいにワクワクしてくるのが自分でわかる。

思い返せば、去年の今頃はスピティのテレビ取材の事前手配で右往左往していて、大変だった。旅の計画を練るという点では同じだけど、他の人たちに気を遣わなければならないので(当たり前だが)、とにかく気疲れした。そういう意味では、自分一人の旅の計画を練るのは本当に気が楽だ。失敗しても、困るのは自分自身。ましてや、依頼された仕事でもない。まあ、一人ならたいてい何とかなるし。

今度の旅では、いったい何が待っているのだろう。

「銃弾の饗宴 ラームとリーラ」

ramleela年末年始のキネカ大森詣での個人的な〆は、「銃弾の饗宴 ラームとリーラ」。去年、エアインディアの機内で一度観たのだが、これは映画館のスクリーンで字幕付きで観なければ、とずっと思っていた作品だったので、今回観ることができてよかった。

舞台はグジャラート州のとある町。武器の密造と売買が横行しているこの町では、ラジャーリとサネラという二つの部族が長らく敵対関係にあった。ラジャーリの頭領の次男坊、争いを好まない女たらしのラームは、ホーリー祭の日にサネラの領分に忍び込み、サネラの頭領の娘、リーラと出会う。あっという間に惹かれ合うようになる二人だったが、ラジャーリとサネラの争いは、彼らの運命を引き裂いていく……。

サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督のこの作品、とにかく絢爛豪華で、大胆かつ緻密な映像美が素晴らしい。映画館のスクリーンで観ると極彩色の奔流に飲み込まれて茫然としてしまう。その一方で、物語自体はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が基底にあるものの、なぜ憎しみ合うのか、なぜ愛し合うのか、というこの映画としての必然性は希薄に感じられた。あと、古典的な映像美の世界に自動車やテレビやスマートフォンといった現代のツールを織り交ぜる手法はバンサーリー監督特有のものらしいのだが、個人的には正直「それ、無理に織り交ぜなくてもいいんじゃね?」と思えてしまった。その点、昨年末にインドで公開された同監督の「Bajirao Mastani」は完全な歴史物なので、機会が観てみたいと思う。出演しているのもこの作品と同じ、ランヴィール・シンとディーピカ、そしてプリヤンカー(この映画ではアイテムガールとしての出演)だし。

ツッコミどころは数々あれど、この映像美、観る価値は十二分にある。本当に美しかった。