自分は何者なのかは、自分で決める

昨日の午後、新宿で「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。史上最高のロック・バンドの一つであるクイーンと、そのリード・ヴォーカル、フレディ・マーキュリーの生涯について描かれた映画。最初から最後まで、文字通り、シビれるような展開だった。彼らがどんなバンドで、どんな軌跡を辿ってきたのか、ある程度知っていたつもりだったけど、そのクリエイティビティと情熱、そしてフレディの孤独の闇の深さに、あらためていろいろ考えさせられた。

物語の終盤、ある決意を固めたフレディが、バンドのメンバーたちに向かって、こう言い放つ場面がある。

「I decide who I am.(自分が何者なのかは、自分で決める)」

ああ、そうだよな、と思う。

世の中の人々の多くは、自分がまだ何者でもないことに思い悩む時期がある、と思う。僕自身、二十代の頃はそうだった。物書きになりたくても認めてもらえず、編集者になりたくても望む仕事をもらえず……。でも、「自分はこの仕事をやるんだ」と腹をくくって、しがみつき、もがきながら、少しずつ、少しずつ、積み重ねていって……ふと顔を上げて、ふりかえると、僕は、うっすらと、おぼろげながらも、何者かになっていた。物書きとしても、編集者としても、写真家としても、まだまだはしくれ程度の存在でしかないけれど。

自分が何者であるのかは、他人に決めてもらうことではない。かといって、自分で名札を書いて胸に貼り付ければ、なりたい自分になれるわけでもない。世間的な肩書きや社会的地位には、本当の意味での価値は何もない。自分自身で選んだ目標に、挑み続け、やり遂げることでしか、何者かになれる道はない。

生き方を、自分で選び取る。自分が何者なのかは、自分で決めるのだ。

本を読み返す

J.D.サリンジャー、村上春樹訳「フラニーとズーイ」読了。この間の「ナイン・ストーリーズ」同様、野崎孝訳の「フラニーとゾーイー」を読んだのはおっそろしく昔のことだったのだが(今奥付を見たら、昭和63年の28刷だった)、物語の最後にふわあっとこみ上げてきた何とも言えない感情が、当時感じたのとまったく同じだったので、自分でもちょっとびっくりした。

人は人生の中でたくさんの本を読む(まあ、そんなに読まない人もいるだろう)けれど、何度も手に取られ、読み返される本は、たぶんそんなに多くはない。何度も読み返したくなる本には、人の心を惹きつける何かが宿っているのだろうし、何度読み返しても飽きられない耐久力を持っているのだと思う。何十年ぶりに読み返しても、同じ感情を甦らせるような、底力を。

願わくば、そんな本を自分も作れたら、と思う。

リズムに馴染む

終日、部屋で仕事。午前中は仕事関係のメール連絡と、短めの原稿の編集作業。おひるは冷凍してあったスープを温めて簡単にすませ、スーパーで食材の買い出し。家に帰ると、タイ関係の初校がレターパックで届いていたので、テーブルに広げて校正作業。一段落したところで、夕飯の支度。根菜と豚バラの煮っころがしを仕込む。

こういう生活のリズムに、最近、かなり馴染めてきたように思う。引っ越す前はどうなるかと思ってた朝型生活へのシフトもすんなりできたし、仕事に集中する時間帯と、家のことを片付ける時間帯とをうまく切り分けられるようになってきた。今のところ、どこにも無理は生じてないし、心地よいとすら思えるほど。

でもまあ、そのうち、そういうリズムを、変えたくなくても変えざるを得ない時期が来る。それが今の自分の仕事の宿命。今度は割と長いんだよなあ。来年早々に、二カ月くらい……。ほんと、我ながら、やれやれ、である。

「ムトゥ 踊るマハラジャ」デジタルリマスター版

「バーフバリ」効果で日本国内でのインド映画の需要が高まっているからなのか、なんと今、「ムトゥ 踊るマハラジャ」が再びスクリーンで公開されている。しかも、オリジナル・ネガからの4Kスキャンと修復、さらにオリジナル音源からの5.1chデジタルリミックスが施された、最新のデジタルリマスター版である。これは劇場で見届けておかねばと、新宿ピカデリーに観に行ってきた。

日本で初めて公開されてから、今年で20年。当時は、確か年末のテレビ放送か何かでちょこっと観たくらいだったと思う。4Kで現代に甦った映像はびっくりするほど鮮やかで、ミーナのまとうきらびやかな衣装は眩しいくらいに燦然と輝いていたし、ラジニ様のアクションシーンも土埃が感じられるほど生々しい。リミックスされた音響と相まって、まるでついこの間公開された映画を観ているかのようだった。

まあ、さすがにカメラワークやカットのつなぎなど、細かい部分に牧歌的な古さはあるのだが(それもまた良い味わいなのだが)、何十台もの馬車でのチェイスシーンなど、今の時代にCGで表現しても全然追いつけないような迫真のシーンも多い。物語の進行も、笑いどころ、泣きどころ、キメどころと、良い意味での「おやくそく」がまんべんなく詰め込まれている安心感がある。主人公のムトゥはシュッとしたイケメンではないし、筋骨隆々のマッチョマンでもないけれど、気がつけば、彼が全部持っていく。やっぱり、さすが、スッパルスター・ラジニカーントである。

「内輪ウケ」について

文章や写真、あるいは映画や絵画、音楽など、いろんな表現活動において、100人中100人に支持される作品は、たぶん存在しない。もし、そんな作品があると言われたら、僕はかなり用心してかかると思う。

だからといって、「100人中100人に支持されるものはないから、わかる人にだけわかるものを作ればいい」と単純に開き直るのも、ちょっと違うのではと思う。最初から「わかる人にだけわかるもの」を目指してしまうと、作品の可能性を自ら狭める結果になりかねない。

出版や写真の業界で、「……それは単なる内輪ウケでしかないのでは?」と感じる事例に接することが、最近よくある。もっともらしいお題目を唱えて自分たちの評価を高めようとしても、内輪でしか通用しない閉じた価値観に囚われていたら、内輪ウケの域を脱することはできない。内輪同士で心地よいぬるま湯に浸っていては、伝えられるはずのものも伝えられない。

100人中100人に支持される作品はないと自覚しつつも、あらゆる人に対して開かれた価値観を作品に込めることを忘れてはいけない、と僕は思う。