Category: Essay

写真を通じて世界を愛するということ

昨日、渋谷で開催中のソール・ライター展を見た後、雑誌か何かで「ソール・ライターのような写真を撮るためのテクニック」という趣旨の記事を見かけた。構図の選び方、キーカラー、鏡やガラス、雨や雪の日、覗き見的なアングル……そんな内容だった気がする。もし、ソール・ライター自身が存命で、その記事に目を通したとしたら、たぶん例の調子で、フン、と鼻で笑うだろう。

もし、本当の意味で、彼のような写真を撮ろうとするなら、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで、54年間、毎日、写真を撮り続けるしかない。小手先のテクニックと写真の本質は、まったく別のところにある。

完璧な構図、完璧な光線、完璧な配色、決定的な瞬間。すべての要素が完璧に計算しつくされた写真だから喚び起こせる種類の感動があることは否定しない。でも、少なくとも僕の目から見て、ソール・ライターがイースト・ヴィレッジで54年間、日々淡々と撮り続けてきた写真の一枚々々は、けっして狙いすまして撮られた完全無欠の作品ではないと思う。むしろ不完全で、微妙に揺らいでいて、思いもよらない何かが写り込んでいたり、逆に見切れていたり。理屈や計算では説明しきれない部分に、彼の写真の本質がある。

現実の世界は、いつも不完全で、人の思うようにはならないものだ。彼は、写真を撮ることを通じて、世界を愛した。ただただ、イースト・ヴィレッジの日常を、ありのままの世界を、愛していたのだと思う。

運命の巡り合わせ

運命の巡り合わせ、という言葉がある。その人にとって、偶然という一言で片付けるには不可思議に思えるような出来事がいくつか続いた時に、よく使われる言葉だ。

僕は数年前から、とても個人的な動機で、アラスカを取材をしている。その動機が生まれた背景には、いくつかの出来事があったのだが、それらについて近しい人に話すと、ほとんどの人が口を揃えて「それは運命の巡り合わせじゃないですか」と言う。確かに、そう言いたくなるのもわかるような、不可思議としか言いようのない符合が(20年以上前から)あった。でも僕自身は、それらの出来事を「運命の巡り合わせ」という言葉であっさり片付けてしまいたくはない、という気持でいる。

この世界は、目には見えない運命というものに支配されてなどいない。人が生きていく中で起こるたくさんの出来事の中から、何を感じ、何を選び、何をするのかは、その人自身が決めることだ。そうして選んだ道は、時には、もしかするとどん詰まりになるかもしれないけれど、そうなったとしても、僕は後悔はしない。自分で考えて、選んだ道だから。

運命なんか、アテにして、たまるものか。

ふんわりした善意

個人的に、ふんわりした善意は、どうも苦手だ。

何かの目的のために、ボランティアを募集したり、寄付を募ったり、最近ではクラウドファンディングという方法も使われているけれど、呼びかける側が「私たちは、善いことをしているので、応援してください」というふんわりした善意というか、ざっくりとした思い込みだけで動いていても、同意や共感はなかなか得られないだろう。

応援しようかどうかと考えている側が知りたいのは、目的を達成するために何が必要で、どんな課題があって、それに対してどういう取り組みをしようとしているのか、といった、具体的なビジョンだと思う。少なくとも、僕はそうだ。みんなで手と手を取り合ってお花畑を駆けていくような夢想は、別に望んでいない。

ふんわりした善意だけでは、何も変えられない、と思う。

仕事でやさぐれてる人への処方箋

春だからというわけでもないが、こんな話をば。

仕事柄、いろんな人に会う。取材先の人はもちろん、仕事を依頼する側の人や、同じ業務に携わる人、行く先々でお世話になる人など。はつらつと勢いに乗っている人もいれば、壁にぶち当たって悩んでいる人もいる。仕事に対して、すっかりやさぐれてしまっている人もいる。

職場環境が不当かつ劣悪であったりするような場合を除くと、仕事に対してやさぐれてる人は、大きく二つのタイプに分かれる。一方は、「どうせ自分は、能力のない、ダメな人間だから」と、自分自身をあきらめてしまっている人。もう一方は、「こんなはずじゃなかった。自分はもっとやればできる人間なのに」と、自分の能力を過信してしまっている人。後者に関しては、僕も二十代の頃にかなりその兆候があったので、今もそういう人に遭遇すると、ひりひりした気分になって、いたたまれない(苦笑)。

前者も後者も、そういう人とうまく付き合うのは難しい。前者の人に何の根拠もなく「そんなことない。がんばればきっとうまくいきますよ」とは言いづらいし、後者のような人に「いや、今のあなたにはそこまでの能力はないですよ」とも指摘しづらい。良い影響力を持つ上司の方などがいれば話は別かもしれないが……。

で、ほとんどの場合、前者の人も後者の人も、その時点での仕事に対する姿勢は、かなりなげやりになってしまっている。一つひとつの作業は雑になり、一人ひとりに対する接し方も雑になる。周囲からの評価はますます下がる。それに嫌気がさして、ますますなげやりになる、の無限ループ。そういう人が職場を変えてみたとしても、悪循環から抜け出せる可能性はけっして高くはない。

仕事でやさぐれてる人への処方箋は、たぶん、一つしかないのだ。

あまり先のことばかり考えず、その時点で目の前にある作業に、一つひとつ、きちんと丁寧に取り組んでいくこと。仕事関係で会う人、一人ひとりに、きちんと丁寧に接していくこと。一つひとつ、一人ひとり、小さな結果をもう一度最初から丹念に積み上げていく。たとえそれが、その時は「つまらない」と思うことだったとしても。そうした積み上げがすぐに周囲からの評価を変えるわけではないけれど、けっして無駄にはならないし、その先に進んだ道で大きな変化があった時、きっと確かな下支えになる。僕自身も、フリーランスに転身した頃、それに近い経験をしたから。

積み上げることを怠って、やさぐれているだけの人には、たぶん、いつまでたっても、出口は見えてこない。

嘘は書かない

取材やインタビューを基に文章を書くことを生業にするライターにとって、何よりも守らなければならないのは、「嘘を書かない」ことだ。賞賛するにせよ、批評するにせよ、取材では誠意を持って話を聞き、きちんとそれに基づいた文章を書かなければならない。事実と異なる話を書いたり、書き手の欲する結論に無理やり歪曲したりするのは、ライターの仕事としては、論外だ。

そんなの当たり前じゃないか、という人は多いとは思うが、実際にライターとして働いていると、嘘を書くことを要求してくる依頼元は、結構あるのだ。依頼元にとって都合のいい結論にしろとか、取材では出ていないけどこういう内容も入れろとか。その場合、ライターはどうすべきか。

僕の考えは、一択だ。絶対に、嘘は書かない。どうしても書けと言われたら、その仕事からは降りる。

そんなことしていたら取引先をなくしてしまう、と心配する人もいるかもしれないが、嘘を書くことを強いてくるような依頼元との取引は、どのみち長続きしない。それよりも、嘘の混じった仕事をなし崩し的に続けてしまうと、どこかで思いもよらない形で、そのライター自身に対する悪評が広まる危険性がある。「あのライターは、取材で話してもいない作り話を勝手に書いた。信用できない」というような。いったん失ってしまった信頼を取り戻すのは、本当に難しい。目先の仕事の本数なんぞよりも、失うものが多すぎる。

「ヤマモトさんは、こっちが話したことをそのまま書いてくれますね。言ってもいないことを書いたりはしない」と、以前取材した人に言われたことがある。逆に言えば、今の世の中には、自分たちの欲しい結論ありきで、取材対象者が言ってもいないことを書いたりするライターが少なからずいるということだ。確かに、ライター稼業は、地べたを這いずるようなきつい仕事だ。きれいごとだけではやっていけないという人もいるかもしれない。それでも僕は、嘘は絶対に書かない。嘘を書かないことで、つながっていく信頼と仕事は、確かにあると思う。