Category: Essay

腹黒くてヘタレな男

知り合って間もない人から、「ヤマモトさんて、いい人ですよね」というニュアンスのことを言われることがある。ほぼ間違いなく社交辞令だと思うのだが、そんな風に言われた時は「いや、僕は基本的に腹黒いですから」と返すことにしている。

似たようなシチュエーションで、「ヤマモトさんて、すごい冒険をしてらっしゃいますね!」みたいなことを言われることもある。そういう時には「いや、僕は基本的に一人では何にもできない、ヘタレなんですよ」と返すことにしている。

どちらも謙遜でも何でもなく、自分自身、かなり本気でそういう人間だと思っている。基本的に、腹黒くて、ヘタレな男。自分の中にあるどうしようもなく邪な部分、情けない部分を認めてしまうと、何だか楽になれるのだ。

そんな僕は、本当に穏やかで優しい人や、はちきれんばかりの勇気に満ちあふれている人に出会うと、眩しくて目も合わせられない気持になる。けれど僕は、腹黒くてヘタレななりに、どうにかこうにか、しぶとく生き抜いてやろうと、今日も地べたを這いずりながら、あがいている。

会いたいのは旅人ではなく

来年の早い時期に、たまっているスターアライアンスのマイルを使って、半月ほどラオスに行こうと考えはじめた。で、ネットでラオス各地の情報を調べはじめたのだが、思っていた以上に名前に「ホステル」とつくドミトリー形式の宿が多いことに気づいた。いずれも新しめの綺麗な宿。手頃な料金設定で、エアコンやホットシャワーやWi-Fiを完備し、朝食サービスや共有スペースのミニバーなども利用できるような。僕が毎年取材しているタイでも似たような宿が増えているし、他の国々もおそらくそうなのだろう。

旅の中で写真を撮ることが仕事の一部になってから、撮影機材をできるだけ安全に保管しなければならなくなったので、今ではドミトリーを選ぶことはほぼなくなった。でも、20代の頃は、旅先でドミトリーの宿があれば、よほど怪しくて感じ悪いとかでなければ、そこを最優先で泊まっていた。旅費の節約という、背に腹は代えられない理由で。その頃のドミトリー宿は、殺風景な部屋にただベッドが並んでいるだけで、設備も最近の宿とは比べものにならないボロ宿がほとんどだった。それでも、一緒に泊まり合わせた他の国々から来た旅人たちと、情報交換したり仲良くなれたりするのは、あの頃の僕には新鮮だったし、愉しかった。

ただ、僕の場合、旅先で一人で過ごしていると寂しいから、誰か他の旅人と出会いたくてたまらないから、という理由ではドミトリーを選んでいなかったように思う。何かのひょうしにたまたま知り合って、じゃあお茶かごはんでも、というのは全然構わないし、今でも行く先々でよくあることだが、自ら進んで他の旅人たちとつるみたい、行く先々で行動を共にしたい、という発想は、昔も今もあまりない。

僕が旅先で会いたいのは、他の国々から来た旅人たちではなく、自分がその時旅している国に暮らしている人々や、そこにしかない風景なのだ。その出会いを大切にするには……それを文章や写真に落とし込むには、できるだけ自分が自分らしくいられる状態で旅したい。僕の場合、それは一人で旅することを意味する。

異国の雑踏の中を、一人で歩き回る。誰もいない荒野に、一人で立ち尽くす。薄暗い部屋のベッドで地図を広げ、一人で計画を練る。その、ぞくぞくするような愉しさ。僕にとっての旅は、たぶんそういうものなのだと思う。

「作品」とは呼べなくて

僕の仕事は、文章を書いたり、写真を撮ったり、それらを編集したりして、本や記事を作ることなのだが、そうして書いたり撮ったりして作り上げたものを、自分で「作品」とは呼んでいない。それぞれ「文章」「写真」「本」「記事」と呼んでいる。

「作品」という言葉には、「自分自身の内から湧き出てくる何かから作り上げたもの」というイメージが、少なくとも僕の中にはある。そのイメージと照らし合わせて考えてみると、僕の文章や写真は、僕自身の内にあったものだけから作り出してはいない。いろんな場所に行って、見て聞いて感じたものを、「書かせてもらっている」「撮らせてもらっている」「それで本や記事を作らせてもらっている」という感覚に近い。そうやって作らせてもらったものを自分で「作品」と呼ぶのは、とてもおこがましい気がしてしまうのだ。この先、死ぬまでに一冊くらい小説を書いたりすることもあるかもしれないが、僕の場合、それすらも「作品」と呼ぶには気恥ずかしくなってしまうと思う。

たぶん僕は、「作り手」ではなく、根っからの「伝え手」気質なのだと思う。

人の物差し、自分の物差し

昔、飲み会の席で「一番好きなラーメンの店は?」という話題になった時、ある人が都心の高級中華料理店を挙げたので、その理由を聞くと、「あの有名俳優のナントカさんの行きつけの店だから」という感じの答えが返ってきた。

その人は、ナントカさんのおすすめコメントをテレビか雑誌で見て、店に足を運んだのかもしれない。きっかけとしては別に悪くないとは思う。ただ、その時の答えはどちらかというと、自分がその高級中華料理店を好きな理由を、ナントカさんの物差しを拝借することで立派に見せようとしているように感じられた。虎の威を借る狐、みたいに。

似たようなことは、僕も、世の中の人も、多かれ少なかれ、やっているのかもしれない。何かを選ぶ時に、人の物差しを参考にする。自信のなさを、人の物差しで補強する。でも、そればっかりでは、つまらなくないだろうか。自分自身の物差しで、好きなもの、嫌いなもの、正しいこと、間違ってること、一つひとつ決めていく方が、絶対に楽しいと思う。最初から確固たる物差しを自分の中に持っている人などいないのだから、試行錯誤しながら少しずつ精度を上げて、その過程を楽しんでいけばいいのに。

友人のラダック人のツェワンさんは、近所の主婦たちが料理を習いに来るほどの料理上手で、特にカレーは絶品なのだが、「好きな料理は?」と聞いたら、「スガキヤの坦々麺は、うまいですよね。あれは、うまい」としみじみ言っていた。それでいいんだと思う。

被写体との「距離の近さ」の正体

「被写体との距離が、近いですね」と、何かの機会に僕の写真を見てくださった方から、時々言われることがある。そう感じていただけるのは、もちろん嬉しい。ただ、最近ふと思ったのは、そもそも写真を見た時に感じる被写体との「距離の近さ」の正体とはいったい何なのか、ということだ。

カメラを持つ撮り手と被写体との間の「物理的な距離が近い」という、言葉通りの意味での「距離の近さ」がそう感じさせる場合は、もちろん多いだろう。望遠レンズで遠くから秘かに狙って撮るよりも、至近距離で撮る写真の方が「距離の近さ」は感じさせやすいのかもしれない。ただ、むやみに被写体に近づいて撮っても、良い写真にはならない。逆に、撮り手のあつかましさや思慮の浅さが透けて見えてしまうことも少なくないと思う。

被写体が人物の場合、互いの間の「気持の距離」が、その時、どんなバランスになっているのかを見極める必要がある。場合によっては、少し離れた場所から一定の距離を保って撮らせてもらった方が、その人との「気持の距離」を素直に伝えられたりもする。一定の距離があるからこそ伝えられる感情や思いも、世の中にはたくさんあるからだ。

物理的な「距離の近さ」ではなく、本質的な意味での「距離の近さ」を見る者に感じさせる何かが写真にあるとしたら、その正体は、被写体に寄り添う撮り手の気持そのものだと思う。一方的な思いを写真にねじ込むのではなく、フレームの外からそっと寄り添うように、被写体を近しく思う気持を届けられているかどうか。気持が寄り添っていることを伝えられている写真なら、物理的な距離は近くても遠くても、本質的には関係ない。さらに言えば、被写体が人物であろうと動物であろうと風景であろうと、撮り手の気持が被写体に寄り添っているかどうかは、必ず写真ににじみ出る。それはもう、確実に。

僕もできるだけ、常に被写体に寄り添うような気持で、写真を撮り続けられたら、と思う。